5-7
*
カランコロンカラン……
『準備中』の札が下げられた『ペニー・レイン』のドアを開けると、ドアベルの音が力無く店内に鳴り響いた。
それはドアを開けた当人の気持ちを反映しているようで、ガランとした店内に寂しくこだました。
店の中にはナビの予想に反して、誰もいなかった。
ジャズの名曲だけが、静かな音量で流れている。
良く晴れた夏の夜のこと、加えて金曜日の夜ともなれば、本来なら涼を求める酔客で溢れかえってもおかしくないところだが、そこは『ペニー・レイン』。
雨の気配がない夜は、完全に休業状態なのだ。
ドアを開けた時、ジェビンとオーサーの明るい声が自分を迎えなかったので、ナビは寂しい気持ちの反面、安堵の思いでホッと息をついた。
今いつものように、二人に優しく「お帰り」とでも言われようものなら、泣き出さない自信がなかった。
いつもはオーサーが陣取っている誰もいないカウンター席に、ナビはそっと腰を下ろす。
椅子に座って肘を付き、頭を抱え込むように俯くと、疲労感に軽く眩暈がした。
「あれ、ナビヤ……帰ってたの?」
その時、カウンターの奥、居住スペースのキャンピングカーを繋いだ通路の戸が開き、ジェビンが顔を出した。
「ミンホとデートだったんだろ? 随分早いんだな」
喧嘩でもした?――からかうようにそう笑いながら、店に入って来たジェビンは、カウンター席に座るナビの前まで来た時初めて、いつもと違うナビの様子に気がついて、笑うのを止めた。
俯くナビの瞳から、涙が一粒零れ落ちて、カウンターの上で弾けた。
「……どうした?」
ジェビンは手を伸ばし、俯いたままのナビの頬を優しく拭ってやる。
「折角おしゃれしてきたのに、ミンホが気付いてくれなかったとか?」
ナビはブンブンと首を横に振る。
「……可愛いって、言ってくれた。似合ってるって」
鼻を啜りながらも、ナビは懸命に答える。
「じゃあ、通りすがりの他の女に見惚れてたとか?」
先ほどよりももっと激しく首を横に振って、ナビは涙声で言う。
「あいつはいっつもバカみたいに、僕しか見てないよ。一緒に歩く時、危ないくらい」
健気なナビの回答がいじらしくて、ジェビンは少し吹き出すと、対面に腰かけ目線の高さを合わせ、ナビの顔を覗き込んだ。
ジェビンの優しい灰色の目に見つめられると、ナビはとうとう我慢の糸が切れてしまった。
しゃくりあげて泣き始めたナビの髪を、ジェビンが優しく撫でてやる。
(……その髪の色、普通の勤め先でないことは、見れば分かるよ)
(戻って来いよ、シンデレラ。お前に、舞踏会は似合わない)
頭の中で、ミンホの父から思わず漏れた辛辣な言葉と、サンウに投げつけられた暴力的な言葉が、渦を巻いてナビを責め立てる。
「……ナビヤ」
ナビの金色の髪を撫でていたジェビンが、静かに言った。
「髪の色、元に戻そうか?」
不意をつかれて、ナビが泣きはらした顔を上げる。
「明慶大の時、黒髪がすごく可愛かった。オーサーも言ってただろ? あいつに同調するのは癪だけど、俺もお前には、もっと落ち着いた色が似合うと思うよ」
それに――と、ジェビンは悪戯っぽく付け加える。
「恋人との危機には、イメージチェンジが有効なんだぜ」
「……兄貴」
「お前が、何で金髪にこだわるのか知ってるよ。だけど、無理して俺と同じにする必要なんかないんだぜ」
この兄には、言わずとも自分の心を見透かされているのだろうか。
「髪の色なんか関係ない。お前がどんな姿でも、お前は俺の大切な、自慢の弟に変わりないんだから」
血の繋がらない兄と過ごしてきたこの9年の歳月の中で、ナビは幾度となくこのような思いを抱いたことがある。
ジェビンは本当に深いところまで、ナビの気持ちを理解していた。
「俺がカッコよくしてやるから、任せとけ」
そう言って、ジェビンはナビの頭をかき抱くと、その小さなつむじに優しくキスを落としてやった。
*
炎天下の街頭で、ATMの前に立ちつくしてから、ゆうに二時間が経過していた。
ジェビンに黒く染めてもらったばかりの髪は、夏の直射日光の熱を吸収して、余計にナビの体力を奪っているようだった。
汗でベトベトになった手の中には、たった一枚のカードが握られている。
(……それ、何?)
(図面です。見て、ヒョン)
いつもの喫茶店で二人の時間を過ごしていた時、ミンホがおもむろにカバンから取り出したのは、テーブルいっぱいに広がる図面だった。不思議そうな顔でそれを覗き込むナビに、ミンホは得意げに胸を張りながら説明した。
(ここに、ベッド。こっちは、タンス。テレビは……)
器用に線を加えながら、ミンホが歌うように続ける。
(それ、もしかして――)
(僕らの、家です)
答えに検討はついていたものの、はっきりとその口から言われると気恥ずかしくて堪らない。
ナビがウーッと唸りながら俯く顔を、ミンホが面白がって下から覗き込んだ。
(……その図面、間違ってるよ)
(へえ? どこが?)
悔し紛れに唇を尖らせてナビは続ける。
(何で、ベッドが一つしかないのさ?)
(ああ、そんなこと)
ミンホはニヤニヤしながら顔を上げた。
(図面は間違ってませんよ。サイズ、よく見て)
(え?)
(ダブルです)
(なっ?!)
途端に沸騰したように赤くなるナビに、ミンホは手を叩いて笑った。
(あなたは壁際ね。寝相が悪いの知ってるから)
そう言って、図面の中のダブルベッドに、寝ている人型の絵を描き、ご丁寧にそこに矢印を引っ張り『ナビ』とサインした。
(バーカ! バーカ!)
ナビは照れくささに居た堪れなくなり、小さな拳でミンホの胸をポカポカ殴った。
ミンホはナビの拳を手のひらで受け止めながら、いつまでも幸せ一杯な顔で笑っている。
ミンホは通帳を取り出して、少しずつ増えていく数字の0を数えた。
(やっと、二百万ウォン。今は、このベッド買うので精一杯ですけどね)
先にベッド買っておきますか?
ふざけるミンホに、ナビの拳の連打が止まらなくなった。
そう言って話したのは、ついこの間のことなのに。
どんなに小さな額だって、自分とミンホが二人のために、二人で見る同じ夢のために貯め始めた金だったのに。
手にしたカードを使うことは、自分とミンホの夢を売り渡すことと同じだった。
だけど……
(お偉いあの両親が知ったら、どう思うかな? 自慢の息子の恋人は“男”で、しかも生まれ持ってのインバイときてる)
優しさのカケラもない、残酷な言葉。
だが、その言葉を何一つ否定できない自分がいる。
(王子様との同棲資金を差し出す意気地があるなら、その心に免じて忘れてやるよ)
忘れてやる――
その一言が、ナビの背中を押す。
ナビは汗で滑る手のひらの中のカードをもう一度強く握り締め、ATMの扉に向って一歩踏み出した。