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「ごめんなさいね、ナビさん。だけど、ミンホも心配だわ。小さい頃から勉強ばかりで愛想がなくて。ナビさんも、誰かいい人がいたら、紹介してやってね」
ミンホの母の言葉で多少空気は和んだものの、席についた六人は、以降は言葉を交わさず、無言でカチャカチャとフォークとナイフが擦れる音だけが響いていた。
「……すみません、僕ちょっと」
皿の上の料理も半分ほど残したままで、ナビはそう言って、途中でそっと席を立った。
「ナビヒョンッ!」
レストランの廊下に出たナビの手首を、後を追ってきたミンホが掴んだ。ナビは振り返り、困ったような泣き出しそうな顔で自分を見下ろす恋人の姿を見上げた。
「父が失礼なことを……」
苦しげに言いかけたミンホの言葉を遮り、ナビは努めて明るい声で言った。
「ゴメンね。僕、ちょっと気分が悪くなっちゃって……さっき、一杯だけ飲んだビールが回っちゃったみたい」
そっと手を伸ばし、ミンホの短い襟足の髪を撫でる。
「送って行きます」
手首を掴む力は徐々に強くなり、無意識にミンホがナビを逃がすまいとしているのが分かる。
ナビは少し困ったような笑みを浮かべて、なだめるようにミンホの髪を撫で続けた。
「折角の妹さんの誕生日でしょ。最後まで居てあげて?」
ね?――
そう言って、そっと手首を掴んだミンホの手の上に、自分の手を重ねる。
「僕はいつでもいいから、また連絡して?」
「もちろん」
行き交う従業員や客の姿を気にしながらも、ミンホは出来ることならここで思い切りナビを抱きしめたかった。だが、そんなことが自分たちに許されないことも、ナビがそれを望んでいないことも分かっていた。
「……じゃあ、ね。途中で抜けてごめんなさいって、謝っておいて」
「そんなこと……」
ナビは寂しげな笑みを浮かべると、ミンホに背を向けた。
手放せなくて繋いだままの片手から、ナビの指が少しずつ離れていく。
スルッ――っと滑るように、掴んでいたナビの小さな手がミンホの手の中から零れ落ちた。
ナビは最後にもう一度振り返ると、小さな声で「じゃあね」と言った。
「ヒョンッ!」
追いかけようと思わず一歩踏み出したところで、ミンホは思い留まった。今追いかけて無理やり繋ぎとめても、ナビにかけるべき言葉を自分は持っていなかった。
レストランを出て、人ごみの中に消えていくジャケット姿のナビの背中を、ミンホは黙ったまま、いつまでも見送っていた。
*
(私の“小さな騎士”さん……)
埃っぽい舞台裏。
(ハヌル……大好きよ、私のハヌル……)
シン・ハヌル――
それが、“ユン・ナビ”になる以前の自分の名前――
記憶の中でその名を呼んでくれる掠れた声は、もう酷く遠くに聞こえる。
あの女と過ごした誕生日は、たった6回だけ。
ミンホたち家族が揃ったテーブルを飾っていた、あんなに大きく立派なケーキは無かった。
客が跳ねた後の楽屋で、舞台衣装のまま小さな一人分のショートケーキにロウソクを立てて、母はいつも自分の誕生日を祝ってくれた。
ハスキーで物寂しい声で紡がれる『ハッピーバースディ』の歌が、それでもナビは大好きだった。
(ハヌルが私のところに来てくれた記念日よ。ありがとう、ハヌル)
母は、いつも誕生日の度にそう言って抱きしめてくれた。
ケーキの甘さとは質の違う、鼻につく甘ったるい香り。
母の首筋から立ち昇る香水の匂いは、隣りに座った時、ミンホの母から立ち上ったフワリとしたあの甘い上品な香りとは違い、子ども心に安物であると分かっていた。
(神様が私にくれた、特別なプレゼント)
陶器のような温度のない頬をくっつけて、落とされるキスに、くすぐったくて身を捩りながら、ナビもいくつものキスを返した。
夜を生業として暮らしながら、ナビはいつでもこの美しく哀しい女の側にいた。
二人で一つ――そんな風に生きてきた。
ナビは自分の手首を顔に寄せ、クンッと鼻を動かした。
気のせいでも、自分の手首を伝う薄青い静脈の中には、あの日の母の安物の香水が流れ、その匂いが立ち上ってくる気がした。
そんなナビの背後に、ゆっくりと忍び寄る一台の車の姿があった。
歩道の端にピタリと車体を寄せて、静かな音を立てながらスモークの窓が下がる。
「どこ行くんだよ。シンデレラ?」
いきなり後ろから強い力で手首を掴まれ、ナビはハッとして振り返った。
そこには、開いた窓から身体を半分乗り出してナビの手首を掴む、サングラス姿の男がいた。
「まだ十二時前なのに魔法が解けたか? 可哀相に」
わざとらしく腕の時計に目をやり、男が肩をすくめる。
「おめかししてデートだったのに、住む世界が違うって見せつけられた。そうだろう?」
男は痩せこけた頬に皺を寄せて、品のない笑い声を立てる。
「っな?!」
ナビは男の枯れ木のような腕を振り切って、人ごみの中を走り出した。
すぐ後ろでバンッと激しくドアの閉まる音が聞こえてきた。
後ろを振り返るのも怖くて、ナビはぶつかる人々に罵声を浴びせられながらも、街中を闇雲に走り回り、やがて小さな路地の裏に身を隠した。
壁に手を付き、肩で息をしながら崩れ落ちそうな身体を辛うじて支える。
その時だった。
ドンッと音を立てて、二本の腕が、ナビを閉じ込めるように壁を付いた。
背中から伝わるヒンヤリとした体温に、無意識にナビの歯はガチガチと音を立てた。
そのまま恐る恐る身体を反転させて、背後の人物と向き合う。
至近距離で見つめ合うその顔は、サングラスに覆われ、血の気を失った干からびた肌と、ゲッソリとこけて影を作った頬に残酷な歳月の流れを感じても尚、決してナビが忘れることの出来ない男の顔に違いなかった。
「……何が……目的なの?」
震える声で、ナビが尋ねる。
「何で今更……僕を、付け回すの?」
男がサングラスの奥の目を細めたのが、目元に刻まれた深い皺の動きで分かる。
「決まってるだろ? 愛してるから」
男の枯れ枝のような指がナビの顎を掴み、痣がつくほどの強い力でナビの柔らかい頬に食い込む。
「戻って来いよ、シンデレラ。お前に、舞踏会は似合わない」
「離してっ!」
ナビは男の肩を突き飛ばす。
狂気めいた力で顎を掴んではいたが、痩せたその身体は簡単にナビに弾き飛ばされ、反対側の壁に勢いよくぶつかった。
ハッとしたように、ナビも思わず動きを止める。
思いのほかに軽かった男の身体に、動揺しているのはむしろナビの方だった。壁にぶつかった男は、ゲホゲホと咳き込むと、唇の端からこぼれた唾液を手の甲で拭いながら顔を上げた。
突き飛ばされた衝撃で弾かれたサングラスは、ナビの足元に転がっていた。
「……ハン・ミンホ」
男がボソッと呟いた言葉に、ナビの心臓が止まりそうになる。
「お前の、王子様の名前だろ?」
青ざめるナビの表情を楽しげに見守りながら、男が濁った目を歪めながら畳み掛ける。
「お偉いあの両親が知ったら、どう思うかな? 自慢の息子の恋人は“男”で、しかも育ちの悪いインバイときてる」
「……何が、したいの?」
冷たい壁に背をつけているせいで、体温がどんどん奪われていく。青ざめて震える唇は、思うように言葉を紡いでくれない。
「何がしたいんだよっ、サンウッ!」
苛立つようにナビが叫んだ言葉に、男は心底幸福そうな表情で微笑んだ。
「やっと、名前呼んでくれたな」
ナビは足元に転がった男のサングラスを拾い上げると、男に向って投げつけた。男が避けたせいで、サングラスは壁に当たって粉々に砕け散った。
「お金?! お金が欲しいの?」
ナビがそう言うと、男はほんの少しだけ寂しげな顔をした。
「それも悪くないな。昔っから、そいつには苦労させられっぱなしだったから。お前も、知っての通りな」
「幾ら欲しいの? あげるから、もう僕のことは忘れて。僕に付きまとわないで!」
「二百万ウォン」
男が低い声で短くそう告げる。
「最近、愛の巣作りに貯め始めただろう?」
「……何で、それ……」
絶句するナビに、男は口の端を曲げて笑った。
「俺は、お前のことなら、何でも知ってるのさ」
男はゆっくりと一歩、ナビに近づいた。
「金は、はした金だが、王子様との同棲資金を差し出す意気地があるなら、その心に免じて忘れてやるよ」
ナビの耳元にそう囁くと、男は高らかな笑い声を上げながら、ナビを置いて路地裏を出て行った。