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「ところであなた、本当の名前は何て言うんです?」
機嫌を損ねたついでに、ミンホは前から聞いてみたかったことを思い切って切り出した。ナビはカウンターの向こうで、キョトンとした顔でミンホを見ている。
「まさか“ナビ”が本名なワケないでしょう? 猫につける名前じゃないですか(韓国では日本語の“タマ”と同様のニュアンスで使用される名前)」
「おっ前! 本当に失礼なヤツだな!」
今にもカウンターを飛び越えて行きそうなナビを、カウンター奥のドアを開けて顔を出したこの店のオーナー、ジェビンが、クスクス笑いながら止める。
「まあまあ。ナビはナビだよ。風変わりだけど、覚えやすくていいだろ? それに、こいつに合ってる。そう思わない?」
そう言って艶やかに微笑まれてしまえば、ミンホも頷くしかない。確かに、クリクリとよく動く黒目勝ちの瞳に、落ち着きはないが俊敏によく動き回る様は、猫のそれによく似ていた。
「いらっしゃい、チョルス、ミンホ」
目の前に立ったジェビンを見て、ミンホは出会ってから間もないこの男との些細な、だが印象深いやり取りを思い出していた。
ミンホが最初にこの店を訪れた時から、目に留めていたジェビンの左足について、ずっと複雑な表情で見ているのに気が付いて、ある日ジェビンは『昔からの古傷だから、気にしないで』と微笑んだのだった。
自分がそんなにも不躾な視線を送っていたのかとひどく恥じ入るのと同時に、ミンホは改めて人の視線や気持ちの動きに敏感なジェビンという男の不思議を垣間見た気がした。
「早かったね」
そう言って、ジェビンが微笑む。
「三日前はとうとう見つからなかったからな」
チョルスも負けずに、ニッコリと微笑む。
「ハハハ、じゃあ辿り着いたお祝いに、これはオレからのオゴリ」
そう言うと、グラスを二つチョルスとミンホの前に置き、続けて戸棚からブランデーのボトルを取り出した。
「……あ、僕は、勤務中ですから……」
「いただくよ」
ミンホの声を遮って、チョルスがグラスに手をかける。
ジェビンは笑いながら頷くと、二つのグラスにブランデーを注いだ。
「チョルスヒョンッ!」
ミンホが小声でたしなめ、チョルスの膝を打っても、チョルスは涼しい顔でブランデーを一気に煽った。
「相変わらず、いい飲みっぷりだね」
ジェビンは目を細めて微笑んだ。
「お前も、付き合えよ」
チョルスはそう言うと、ジェビンからブランデーのボトルを奪った。
ジェビンは挑発に乗るように、自分の分のグラスを取り出し、カウンターに置いた。
見詰め合う二人の間に、殺伐とした空気が流れる。
「チョルスヒョン」
気が気ではないミンホだが、二人は濃厚なブランデーの匂いを撒き散らしながら酒をついで飲みあうだけで、特にそれ以上掴み合いを始めるような雰囲気もなかった。
その時、他のテーブルから、だいぶ出来上がった状態の集団が声をあげた。
「おーい、さっき注文した酒、まだ?」
カウンターの中で洗剤の泡を飛ばしながら皿洗いに没頭していたナビが、ハッとしたように顔を上げる。
「あっ! すみませんっ! ただいま!」
ミンホのすぐ横で、カウンターに手をかけ、それをヒラリと飛び越えたナビを、ミンホは唖然としたまま口を開けて見送った。
身軽――だが、メチャクチャだ。
本物の猫じゃあるまいし。
カウンターに置いてあるグラスやら何やら、一歩間違えば全部なぎ倒してしまってもおかしくないのに。
だが、ナビの兄である前に雇い主であるはずのジェビンは、相変わらずチョルスとの無言の攻防に意識を集中させているのか、弟に注意する様子もない。
ナビは手にしたステンレスの盆の上に注文されたカクテルをいくつも乗せ、危なっかしい足取りで若者のいるテーブルに向かう。
ミンホは一度チョルスとジェビンの様子を振り返ってから、思い切って席を立ち、ナビの後を追った。
「お待たせしましたぁ」
少し舌足らずな声で、ナビが客のテーブルに到着する。
「えーっと、これが『思い出のサンゴ礁』、そんでもってこれが、『夏の夜明けのハーモニー』……」
詩的なのかクサイだけなのか、そのセンスも微妙な長々しいカクテルの名前を、ナビはポケットに入れたアンチョコを隠そうともせず、堂々と取り出して読み上げた。
「ご注文は、お揃いでしょうか?」
言い終えた満足感に胸を張った時には、既にテーブルを囲んだ男たちはカクテルに口をつけていた。
ナビが開いた皿やグラスを盆に載せて帰ろうとした時、不意にナビの動きが止まった。
ナビの背後で、少し離れたところからそっと様子を窺っていたミンホの目に、不自然な動きで、モジモジと腰を揺するナビの姿が見えた。