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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第5章【遠い日の歌】
138/219

5-2



 ナビがいない日曜日の朝の『ペニー・レイン』にて、オーサーはカウンターの上に投げ出した片腕に頭を乗せて、ゴロゴロと身体を揺すりながら、先ほどから文句ばかり言っている。


「ずるいよぉ、抜け駆けだよぉ」

「うるさいな。さっきから、何百回同じセリフ吐けば気が済むんだよ」


 カウンターの中で果物の皮を剥くジェビンは冷たくそう吐き捨てるが、いつもならどこまでも長く剥ける林檎の皮が、今日に限ってブチブチと短く切れ、思うようにならない自分の手元に苛立ちを募らせていた。


「そんなこと言ってジェビンは、何とも思わないワケ? 俺のナビヤァがぁ……」

「いつからお前のナビになったんだよっ!」

「じゃあ、俺「たち」のナビヤァがぁ」


 涙声になりながらそう訴えるオーサーを煩わしそうに跳ね除けて、ジェビンは背中を向けて林檎の皮剥きに没頭した。


「大事に大事に育てたそういう果物をさ、さあ食べようって時に、横からかっさらわれた気分だよ。ジェビンは? ジェビンはどんな気分よ?」


 カウンター越しに背中に張り付いて食い下がるオーサーに、ジェビンは肩を動かして引き剥がそうとするが、ついに根負けして力を抜いた。

 手にしていた果物ナイフと剥きかけの林檎をカウンターに戻して、深い溜息を吐きながら答えた。


「……俺は、手塩にかけた娘を、嫁に出す父親の気分だよ」


 ジェビンの答えを聞いて、なぜかオーサーが涙目になる。


「泣くなっ! 鬱陶しいっ!」

「だってぇ、ジェビーンッ!」

「抱きつくなっ!」


 ジェビンの拳を浴びながらも、オーサーはジェビンの腰に縋りついて、未練がましい涙を浮かべた。



 事の発端は、先週の日曜日だった。



 開店準備をしていたナビが突然消え、まだ体力も完全でないナビを心配していたところに、突然ミンホを伴って帰ってきた。

 神妙な顔でカウンターに座る二人の様子がこれまでとは違っていて、その場にいたジェビンもオーサーも胸騒ぎを感じていた。

 しばらく無言のまま並んでいた二人だったが、やがてミンホの方が意を決したように口を開いた。


「……実は、お話しておきたいことが」


 その言葉に、ナビがポッと顔を赤らめて俯いた。

 その一瞬を、オーサーは見逃さなかった。


「待って! 俺、あんまり聞きたくないかも」


 しかし、ジェビンが無理やりオーサーの口を塞いで、先を促した。


「こいつのことは気にしないで、話って何だ?」


 ミンホが隣りに座るナビをチラリと横目で見ると、ナビは更に頬の赤さを増してコクリと頷いた。


「……僕たち、一緒に暮らしたいと思っています」

「何だってっ?!」


 素っ頓狂な声をあげたのは、口を塞がれたオーサーだけではなかった。ジェビンもオーサーの口を塞いだ姿勢のまま、カウンターへ身を乗り出す。


「い……いい今、何てっ?!」

「二人で、さっきお互いの気持ちを確認しあったんです……僕たち、これから先も、ずっと一緒にいたいって」

「な……ななな、何言っちゃってるの?! ナビ、嘘でしょ?! ナビヤァ」


 オーサーはナビの手に縋り、悲鳴のような声をあげる。


「落ち着け、お前はっ! だけど、俺にも分かるように、もっとちゃんと説明してくれ」


 ジェビンはオーサーをナビから引き剥がしながら、努めて冷静さを保とうとしながら言った。


「今すぐって訳じゃありません。二人でお金を貯めて、環境を整えるのに、きっと何年もかかると思います。だけどそれまで、内緒で付き合うことはしたくないから。ちゃんと、僕らがどういう気持ちでいるのか、お二人にはお話しておくべきだと思って」

「本気なのか?」


 ジェビンが厳しい目でミンホを見据える。


「本気です」


 ミンホは少しも怯むことなく、その視線を受け止める。


「分かってるのか? ナビは男で……」


 一瞬、そこで口ごもる。ミンホの目から、彼自身もナビが本当に『男』であると信じているわけではないということが、ジェビンには分かっていた。

 東大門のエレベーターの一件以来、それは明らかだった。

 だが、敢えて言葉を続ける。


「お前も男で。おまけに、お前は警官だろ? 世間一般的に見て、大手を振って歩けるような関係じゃないぞ」

「覚悟は出来てます」


 どんなに厳しい状況が待っているとしても『ありのままのナビ』を受け入れる、そんなミンホの揺るがない決意を受けて、ジェビンはナビに視線を移す。


「ナビは? お前は、どう思ってる?」


 ナビは一瞬だけ躊躇するような、ジェビンに対して申し訳ないというような表情を見せたが、決意したように唇を噛み締めて短く答えた。


「僕も、ミンホと同じだよ」


 小さな拳を握り締め、キッと顔を上げると言った。


「覚悟は、出来てる」


 ナビの決意を受けて、部屋が静寂に包まれる。

 やがてジェビンが、長く深い息を吐き出してその緊張を解いた。


「……お前がそこまで腹を括ってるなら、俺から何も言うことはないよ」

「ジェビンッ!」


 思わず叫んだオーサーを手で制して、ジェビンはミンホに向き直った。


「九年間、俺はナビと暮らしてきた。俺の家族はこいつだけだし、こいつにとっても家族は俺だけだ。こいつの兄貴ヒョンとして、これだけは言っておく……絶対、幸せにするって誓え。こいつが少しでも泣くようなことがあれば、いつでも直ぐに別れさせるからな」


 低く呟かれる声は、それが脅しでも何でもなく、本気であることを告げていた。

 ミンホもそんなジェビンの本気に答えて、強く頷く。


「誓います。絶対に、僕がナビヒョンを幸せにします」

「だったら、いい」


 そう言ったジェビンの表情は厳しいまま、皮むきを再開するふりをして、下を向いてしまった。今にも泣き出しそうに目を潤ませたナビの視線を痛いほどに感じていたが、ジェビンは意地でも顔を上げない。ナビと目が合った瞬間に、泣いてしまうであろう自分が分かっていたから。

 しかし、実際に泣き出したのは、全く関係のないオーサーだった。


「いやだよぉ、ナビヤァ……幸せになって欲しいけど、俺とじゃなきゃイヤァ」

「お前は、少し黙ってろっ!」

「この前、屋台でなんかおごらなきゃ良かったァ。オマワリさんを触発しただけじゃないかァ」


 いつまでもグズグズとゴネるオーサーに、ジェビンの鉄拳が振り下ろされ、オーサーの涙はその量を増した。





 駅前のコーヒーショップに駆け込んで行くと、先に来て奥のテーブルに着いていたミンホが、腰を浮かせてナビを出迎えてくれた。


「……ご、ごめん。待った?」

「いえ……僕も、今来たところです」


 初めてなわけでもないのに、こうして明るい日曜の昼間に、二人きりでカップルで賑わうコーヒーショップで待ち合わせをすると、妙な気恥ずかしさがあった。

 二人してモジモジしながら、向い合わせに席に着く。


「これ、あなたに渡しておこうと思って」


 沈黙に耐えられず、先にミンホが切り出した。

 バッグの中から、茶色の封筒を取り出す。

 封筒を逆さにして、テーブルの上に広げられたものを見て、ナビは目を丸くした。


「……通帳?」

「はい」


 ミンホがまだ十万ウォンしか印字されていないそれを、パラパラと捲る。


「これに、二人で貯めたお金を入れていきましょう。何年かかるか分からないけど、貯まったら、これで小さな家を買いましょう」


 一緒に暮らす。


 夢物語でも何でもなく、現実派のミンホは、自分との将来を日常の中に取り入れて考えている――その事実に、ナビは胸を突かれていた。


「……お前、本当に本気だったんだな」


 そう言うと、ミンホは心外だと言うように大げさに顔をしかめた。


「本気ですよ。何度もそう言ったじゃないですか。ヒョンは? 違うの?」


 ナビは苦笑しながら、首を左右に振った。


「通帳は僕が持ってるから、カードはあなたが持っていてください」


 ミンホから手のひらに乗せられたそのカードを、ナビは大切にもう一方の手のひらで包んだ。


「どんな部屋がいいですか?」


 優しい目をして、ミンホが尋ねる。


「……暖房が入る部屋」

「今、真夏ですよ? なのに、暖房の心配?」


 ミンホが呆れたように目を見開く。


「いいだろ。寝る時に寒いのキライだもん」


 口を尖らせて、ナビが反論する。


「寒さなんて、感じないと思いますけど……」

「何でさ?」


 キョトンとあまりに無防備に自分を見つめるナビに、ミンホは少しだけ意地悪な表情を浮かべて言った。


「僕、身体大きいから」

「へ?」

「鈍い人ですね」


 ミンホがそう言って片目を細めた時初めて、ナビはミンホが何を言っているのか理解した。

 途端に、ボッと発熱したようにナビの頬が真っ赤に染まる。


「バーカ、バーカッ!」


 悔し紛れに、テーブルの下のミンホの長い足を蹴飛ばしてやった。

 ミンホは痛みに顔をしかめながらも、赤みの引かないナビの顔を見て、机に突っ伏すようにして笑い転げた。



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