5-1
――優しい雨の、別れの歌。
ハルラン、ハルラン……
雨が降る――
幼い頃から、無意識に口ずさんでいたメロディ
どこで覚えたのか、誰に聞いたのか、
母に尋ねても分からなかった。
それは、雨の歌だよ――
優しい雨の、別れの歌だ。
大人になり、忘れかけていたあの歌を
教えてくれたのは、あなただった。
(※「ハルラン」韓国語の擬声語。日本語で「ひらひら」に相当する言葉。)
***
場末の一杯飲み屋の軒をくぐると、先に着いて、既にしこたま酒を飲んだのであろう、真っ赤な顔をした男が振り返り、大声で「ここだ、ここ!」と自分が座る奥のテーブルを叩いた。
「遅いよ、ドンファ。待ちきれなくて、一杯やっちまったじゃねぇか」
「一杯どころじゃないだろう? 何だ、その空き瓶は?」
席に着いた男が呆れて、テーブルの上に散乱した焼酎の瓶を横目で見やる。
「固いこと言うなって。一世一代の告白には、酒の力も必要なんだよ」
「一世一代の告白ねぇ」
呆れついでにまだ酒の残っている瓶から、自分のコップに手酌して着つけの一杯をあおる。
「で、何だよ。お前の告白ってのは?」
尋ねられた方の男は身を乗り出して、コップを持った男に顔を近づける。
「聞いて驚け! 俺、今、すげぇイカれてる女がいるんだよ!」
得意満面の男に反して、コップを持った男は大げさに脱力して溜息を吐いた。
「わざわざ仕事中の俺を呼び出すほどの大事な話ってのが、それか?」
静かな憤りさえ滲ませる男に、告白した方の男は悪びれる様子もなく続ける。
「だって、お前。ちょっとやそっとの女じゃないんだぜ! この俺が、本当にイカれちまうくらいの天使……」
「お前、今幾つだ?」
興奮気味にしゃべりだす男の話を遮って、尋ねる。
「25、だけど? お前と同じじゃねぇか」
「そうだ、25だよな。25ってのは、どんな年だ? 普通に大学行ってたら、兵役も終わって、ようやく大学卒業って年だ。国民の義務を無事に果たし終えて、さあこれから一人前の社会人として、世のため人のためにお役に立とうっていうそんな年に、お前の一番の関心毎は、女か? え?」
「お前は、見てないからそんなこと言えるんだよ。それに俺は、その辺のちゃらちゃらした大学生出たヤツより、よっぽど世のため人のためになってるぜ」
「どの辺が?」
「どうしようもない変態どもから、汚い金を巻き上げてる」
胸を張る男に、手にしていたコップを置いて、男は答える。
「風俗店の用心棒も、言い方一つで正義のヒーローだな」
皮肉たっぷりの物言いにも、男は全くひるむ様子もなく、グイグイと向かいの席に座る男の腕を引っ張った。
「いいから、すぐそこだから。ちょっと見ていけよ」
子どものようにはしゃぎながら、腕を掴む男にとうとう根負けして、飲みかけの酒もそのままに、男は渋々立ち上がった。
「分かった。行けばいいんだろ? だけど、警官が出入りしていいような店か?」
「関係ないだろ、どうせ今は私服なんだし」
男はそう言うと、立ち上がらせた男の尻を叩いて、店を出た。
男が連れて行かれたのは、安っぽいネオンが光る、雑居ビルの一階に作られたクラブだった。
薄暗い――を通り越して、人の顔の判別も怪しいほどの抑えた照明の下、店の隅では数人のカップルが、日の下ではとても出来ないようないかがわしい行為に耽っていた。
思わず、職業病とも言える癖で取り押さえたくなるのをグッと我慢して、男は先を歩く男に従って店の奥へと進んでいった。
「もうすぐ出番だぜ」
舞台とは名ばかりの大判のベニヤ板を何枚か重ねただけの粗末な舞台のカーテンを巻くって、男が嬉々とした声をあげる。薄暗い空間に、カーテンから舞い上がった埃が、舞台を照らす照明の中でキラキラと反射した。
「ほらほら、席に着いた、着いた」
男は渋々着いてきた男の肩を押して、舞台からほど近いテーブル席に着席させた。隣りで半裸の状態で息を乱す若いカップルを睨みつけながら、男は言われるままに腰をかけ、埃っぽい舞台の幕が上がるのを待った。
しばらくすると、アコースティックギターをチューニングする音が舞台の裏で控えめに響き渡り、続けて静かに幕が開いた。
小さな舞台を照らす、青白いスポットライトの下に、黒いドレスを着た女が足を組んだ姿勢で丸椅子に腰かけていた。
従えるバンドは、先ほどチューニングの音が聞こえていたアコースティックギターと、トランペットのたった二人だけだった。
アップテンポでありながら、物悲しいジャズの旋律に合わせて、女がマイクを構えた。
女の声は、不思議な響きを持っていた。
声質自体は細いのに、深く透き通った深みのある声は、どこか泣いているような哀愁があった。
黒髪を黒いピンでアップにまとめ、身につけている装飾品と言えば、首元を飾る二連の真珠のネックレスだけだった。
だが、それが却って、女の静脈の青がライトの下ではっきりと分かるくらいの白い肌を強調し、どこか少女のような透明感のある美しさを際立たせていた。伏せた瞼の下で、長い睫毛が色味のない頬に濃い影を落としていた。
一度も観客に目を向けることなく、女は淡々と辛い恋の歌を歌い上げる。
隣りでウットリの女の姿に魅入られている男を見て、ここへ強引に連れて来られた訳がようやく分かった。
哀れなヤツだ――
皮肉でも嫌味でもなく、本当に心の底からそう思った。
お前は、この女に誰を重ねている?
きっと、本人も気付いていないのだ。
「ブラボーッ!!」
曲が終わり、女が立ち上がった瞬間、周囲などお構い無しに男も立ち上がり、精一杯手を叩いて舞台の上の女を称える。
「アンコールッ!」
無茶な願いに女は少し困ったような苦笑を浮かべ、後ろのバンドを振り返った。バンドマンたちも迷惑そうにしながらも頷き、結局女はもう一曲歌ってくれた。
「どうだ? いい女だろ?」
テストで100点を取ってきた子どものように、アンコールの曲の最中、男は同じテーブルに座って冷めた目で自分を見ている男に向かって言った。
「確かにな。だけど……」
言いかけた途中で、曲が終わった。
女は乳繰り合うのに忙しく、まともに歌など聴いていなかった観客に向かって律儀に頭を下げると、舞台袖に引っ込まず、そのまま舞台を降りてきた。
「ブラボー、ユジン、ブラボーッ!!」
男が興奮して立ち上がり、女を迎えようと広げた手をつれなくスルリとかわして、女は男たちがいたテーブルの遥か後方のテーブルへと黒いロングドレスの裾を捌きながら、歩みを進める。
女が向かったテーブルには、椅子の上に痩せた膝を抱えて座る幼い少年の姿があった。
子どもはもうとっくに寝ているはずの時間のためか、痩せた少年は膝の間に頭を埋め、眠い目を擦っていた。
女がそっと少年を抱き上げると、少年は女の背にしがみついて、寝入りを起されて少しむずがった。
「おい、まさかあのガキ……」
男が同じテーブルの男の肘を突つくと、突かれた方の男はあっけらかんとした声で言った。
「ああ、ユジンの息子。預けるとこないから、いつも連れて歩いてるんだ」
その答えにますます呆れて、男は深い溜息をついた。
哀れなヤツだ――
先ほどとは違う意味で、しみじみとそう思った。