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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
135/219

4-43


 オーサーが帰った後、ナビがキャンピングカーの中に引き上げる頃、ジェビンは机の上に突っ伏したまま眠っていた。側には整理しかけの伝票類が散乱している。

 細かい作業をする時だけかけているメガネが、鼻先に乗ったままになっていた。

 ナビはそっとジェビンに近付き、起さないように気をつけながら、その眼鏡を取ってテーブルの端に置いてやった。

 この一年で店が軌道に乗ってきたということは同時に、慣れない仕事が急激に増えてきたということである。

 ナビでさえも、最近極度の疲労が溜まってきているのを感じているのに、曲がりなりにもオーナーであるジェビンは尚更だろう。

 深く繰り返されるジェビンの寝息に耳を澄ますと、その疲労の度合いが手に取るように分かった。

 ナビは自分のロフトスペースからタオルケットを取ってくると、眠るジェビンの肩にかけてやり、自分はそっとその足元に座った。

 ジーンズの上からでも分かる、筋肉が引きひきつれて固く強張った左足のふくろはぎに、恐る恐る手を伸ばす。

 硬い布越しに、撫でるように優しく手を滑らせる。

 何度も何度も、外で降りしきる静かな雨のリズムに合わせて、ジェビンの傷を擦り続ける。


「……嫌なんじゃないのか?」


 夢中で擦り続けていた時、眠っているものとばかり思っていたジェビンの声が急に上から降ってきて、ナビはビクッと飛び上がった。

 急いで手を引っ込めて、その手を胸に抱えたまま、丸く怯えた瞳がジェビンを見上げる。


「無理、するなよ」


 ナビの髪を撫でてやろうと思わず伸ばしかけた手を引っ込めて、ジェビンは笑った。


「もう寝ろ。俺も、これだけ片付けたら寝るから」


 椅子の背に手をかけて立ち上がろうとしたジェビンの足に、ナビは思わず腕を巻きつけた。


『……嫌、じゃない』


 足に綴られたナビの言葉に、ジェビンの動きが止まる。


『……ジェビニヒョンのは、嫌じゃない』


 抱えた足に顔を押し付けて、ナビは丸い後頭部だけをジェビンに見せて小さく声にならない言葉を綴る。

 だがそれが決死の告白だと言うことは、足を抱きしめているナビの身体の微かな震えで分かる。


「……ナビ」


 ジェビンはそっとナビの額に手を伸ばし、丸く秀でたそれを大きな手のひらで包んだ。

 それから優しく、ナビを上向かせる。

 椅子を引き、ナビの脇に手を差し入れ、そのまま隣りの椅子にナビを引き上げる。


「よく聞け、ナビ」


 至近距離でナビの黒目がちな瞳を覗き込みながら、ジェビンは雨の底で響くような低く深い声で言った。


「セックスってのはな、機嫌を取るための道具でもなければ、服従の証でもない」


 一瞬、ビクッと肩を震わせたナビを、変わらぬ深い色の瞳で見つめたまま、ジェビンは続ける。


「忘れるな……俺たちは“男”だし、大したことじゃない。いつまでも、傷ついてやる必要なんてないんだ」


 そっとナビの腕を引くと、ポスンッ――と、ナビの軽い身体は一瞬でジェビンの腕の中に納まった。


「本当に、どうってことないんだ。だから、忘れろ。怖いことも、怯えることも、何もないんだ」


 腕に抱いたまま、耳元でジェビンが低く囁く。

 思わずジェビンの顔を振り仰いだナビの唇に、ジェビンの唇がそっと触れた。

 それが合図のように、ナビを抱くジェビンの腕に力がこもる。

 肩先からジンワリと湿った熱が伝わってきて、ジェビンはナビが泣いていることに気が付いた。


「……泣くなよ。本当に、何でもないことなんだから」


 それは自分自身に向けられた言葉でもあった。

 静寂に包まれた部屋の中で、雨の音だけが響く。

 ズタズタに引き裂いた壁の写真が飾られたあのアパートを売って、一年間二人で必死に働いて、ようやく手に入れたこの新しい『マイホーム』にも、雨はついてくる。

 いつのまにか、ジェビンに抱かれていたナビの身体から力が抜け、スースーと気持ちの良い寝息を立て始めていた。

 よく眠っているナビを置いて、ジェビンは立ち上がった。

 中途半端なままにしてしまった店の後片付けをしようと、キャンピングカーを出て黒テントの店内に戻った。

 ガラッと中戸を開くと、薄暗い店内で、カウンターに突っ伏していた人影がムクリと起き上がった。


「……何だお前……まだ居たのか?」


 少なからず驚いて声をかけると、起き上がったオーサーは低い声で呟いた。


「……忠告したはずだよ」


 乱れた髪をかきあげながら、責めるような目でジェビンを見つめている。


「お前にとってあの子は、家族? 恋人? 都合のいいペット?」

「……何だよ、それ」


 目を逸らすジェビンに、オーサーは厳しい声で言った。


「気持ちに答えられないなら、突き放せって、そう言った筈だ。家族になるって、お前がそう決めたんだって思ったから、あの時ナビを帰したんだ」


 オーサーにはナビの気持ちも、ジェビンの気持ちも良く分かっていた。お互いを愛おしく思う気持ちは同じでも、その種類は異なっているということに。


「……見てたんだな」


 忌々しげに、だが、わずかな気まり悪さを滲ませて、ジェビンが呟く。


「勘違いするなよ。お前が思ってるようなことじゃない……必要なことだったんだ。俺にも、ナビにも」

「必要なこと? 同情でキスすることが?」


 オーサーの目が鋭く光る。


「お前は弟への罪悪感を癒すために、ナビの気持ちを知ってて利用してるんじゃないのか?」

「違うっ!」


 ジェビンは大きくかぶりを振って叫ぶ。


「違わないっ! あの子が望んでいたとしても、同じことだ。あの子は家族愛を知らないから。お前が半端な気持ちであの子を受け入れれば、所有者が変わるだけだ……あの子に、あんな傷をつけた誰かと同じだ!! あの子に必要なのは、ちゃんとした家族だよ。疑似恋愛の相手じゃない」


 オーサーはジェビンの肩を掴み、目を逸らすジェビンを見据えて言った。


「今のお前には無理だよ」

「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」


 吐き捨てるようにジェビンが叫ぶ


「何で男の恰好してるか知らないけど、あんなに痩せて怯えて震えてた奴が、この一年で笑うようになって、しゃべれないけど、笑うようになって……あいつはナビじゃないけど、俺にはもう大切な弟なんだ」


 辻褄の合わないジェビンの話を、オーサーは黙って聞いている。

 その時だった。

 中戸をピシャンッと開ける音と同時に、ナビが飛び出してきた。


「ナビッ!」


 ジェビンの背中に体当たりするように身体をぶつけて、そのままジェビンが着ていたTシャツの背中を握り締めて縋り付いた。


「……あっ……あっ、うっ…ヒョ…ン……ヒョ……」

「お前っ?! 声っ!!」


 驚いて振り返ろうとするジェビンにしがみつき、そのまま肩を震わせて泣きじゃくる。


「……お……お、同じ……だ、から……側に……いさせて」


 途切れ途切れに初めて聞くナビの声は、ハスキーで不思議な音色をしていた。


「僕……は、ナビ……で、いい……ヒョンの……弟の……ナ……ビが、いい……」


 オーサーはもう何も言えなかった。

 ジェビンはナビの腕を静かに解いて振り返ると、正面から泣いているナビを強く抱きしめた。



 翌朝、起きてきたナビを見て、ジェビンは手にしていたコーヒーを思わず取り落としそうになった。

 ナビの髪は、ジェビンと同じ鮮やかな金色に染め上げられていた。


兄貴ヒョンと、本当の家族になりたいから。僕の居場所は、ここだけだから」


 一年以上失っていたせいで、まだたどたどしい声でそう言って、ナビは少し恥ずかしそうに笑った。


「……僕はジェビン兄貴ヒョンの、弟だから。ジェビン兄貴ヒョンと、同じだから」


 雨と共に、同じ『痛み』を抱えて生きる。

 同じ色の魂を持つ者の証として、子どもじみていると笑われても、ジェビンと同じ髪の色にしたかったと言って、ナビは笑った。

 この先もずっと、ジェビンと『ペニー・レイン』と一緒にあり続けることを、何よりも大切にしたい、そう言って。



***



「……大丈夫?」


 屋台で隣りに並んだミンホに、オーサーはそっと問いかけた。


「……はい」


 短くそう答えるのが精一杯だった。

 オーサーの口から聞いた二人の過去の話は、とても自分が立ち入れるようなものではなく、自分では想像することは出来ても、本当に理解してあげられるようなものでは無いのだろうと思った。


「ジェビンは、確かにナビの初恋だったと思うよ。ナビが男とか女とかを抜きにしてもね」


 オーサーの言葉に、ミンホの胸がツキンと痛む。


「だけど、それがあったから、ナビはナビ本来の、あの明るさを取り戻せたんだと思う。それは、ジェビンにとっても同じことだよ」


 オーサーは先ほどから急に無口になってしまったミンホに笑いかける。


「誤解しないで欲しいんだけど、今のあの二人には何もないよ。家族同然で、兄弟以上に強い絆があるのは確かだけど、本当にそれだけだ。恋愛感情じゃない」


 慰められているのかとも思ったが、オーサーの目は嘘を言っているようにも見えなかった。ミンホは素直に頷いた。

 そんなミンホにオーサーは微笑むと、励ますように、ポンポンと軽くミンホの背を叩いた。


「ところでさ、『ペニー・レイン』の名前の由来って分かる?」


 気分を変えるように、オーサーが空になったミンホのコップに、新しいビールを注ぎながら明るい声で尋ねる。


「さあ……ビートルズの名曲にあるのは知ってるけど。それとも、女性の名前か何かですか?」

「ああ、確かに。昔そんな映画があったよね」


 オーサーは続けて自分のコップにもビールを注ぐと、楽しげに笑った。


「でも、ハズレ。ナビが名付け親なんだけどね」


 ビールをコクリと一口喉に通してから、オーサーは続ける。


「痛み【ペイン】を癒す雨【レイン】なんだってさ。ジェビンの足の傷と、心の傷、両方を優しく癒す雨だって、そう言ってた」

「……何で、教えてあげなかったんですか?」

「え?」

「それ、文法として間違ってる」


 ミンホもグイッとビールを喉に通して、オーサーを睨んだ。オーサーは悪戯っ子のように、目をクルクルさせてミンホの言葉を待った。


「痛み【ペイン】の形容詞は、【ペインフル】でしょ? あなた、アメリカ帰りなら、気付かない筈ないのに」


 生真面目に呟くミンホに、オーサーはクスクス笑いを止めることが出来なくなった。


「何で笑うんですか?」


 ちっとも分からないというように、不満げな顔をするミンホに、オーサーは手の甲を口に押し当てて笑いをこらえた。


「でも、痛み【ペイン】の雨より、小銭【ペニー】の雨、の方が縁起がいいじゃない? 店としてもさ。だから、言わぬが花、知らぬが仏ってヤツ」


 オーサーは上機嫌で笑いながら、まだ浮かぬ顔をしているミンホのコップに、勝手に何度目かになる乾杯をぶつけた。





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