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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
133/219

4-41


 事件はすぐに表沙汰となった。

 除隊間際のジェビンをシャワールームで待ち伏せ、レイプしたのは在韓米軍中佐アドルフ・ヒルトマンだった。

 ヒルトマンは、抵抗するジェビンの左足を23口径のトカレフで打ち抜き、行為に及んだ。

 その後、ヒルトマンは逃走。

 ジェビンと同時除隊の男の宿舎の飲み物に予めアルコールを混ぜ、宴会会場で中毒症状を起こすように仕向けたこと、その混乱に乗じて一人になったジェビンを襲ったこと、銃には消音装置を取り付けた上で、更に激しいシャワーの音で銃声を掻き消したこと、どれを取っても、すべてが計画的な犯行だった。

 ジェビンは軍の病院に搬送され、すぐに警察の事情聴取が始まったが、彼の精神状態はとてもそれに耐えられるものではなかった。


「もう勘弁してもらえませんかね? おたくらも、警官の前に一人の人間でしょ。死ぬ以上の目に合わされた人間相手に毎日毎日……おたくら、どっちの味方なわけ?」


 警察の執拗な取り調べに苛立ちを隠せないオーサーは、病室から出てきた数名の警察官に思わず食ってかかった。

 警官の一人はジロリとオーサーの軍服を一瞥して言った。


「なんでこんなところに米軍が?」

「確か第一発見者が、在米韓国人の奴だったな」

「親切面して、本当はヒルトマンを手引きしたのはお前じゃないのか?」

「……っな?!」


 あまりの言い草にオーサーが思わず言葉に詰まると、その中で一番若手と思われる長身の警察官が間に入った。


「彼は、被害者の親友ですよ。事件が起こる前は宴会会場でアルコール中毒者の介護に当たってた。アリバイもあるし、動機もありません」

「いつから先輩に意見するようになった。え? チャン警査」

「意見じゃありません。事実を言ってるだけです。最近は、冤罪に対する世論の目が厳しいのは先輩も知ってますよね? それでなくても、さっきの発言は、名誉棄損に十分ですよ」


 少しも怯まない若い警官の言葉に、先輩警官たちは苦々しい顔を隠そうともしなかった。


「フン、ふてぶてしいところばかり、ソンの野郎に似やがって」


 吐き捨てるようにそう言うと、彼らは若い警官とオーサーに背を向けて行ってしまった。


「すみませんでした」


 オーサーをクルリと振り返った長身の警官は、そう言って頭を下げた。苛立ちが収まらないオーサーだったが、この若い警官のことは印象に残っていた。

 配慮のかけらもないジェビンへの取り調べの中でも、彼だけはジェビンに同情的で、決して無理強いしようとはしなかった。


「あんた、名前は?」

「チャン・チョルス、22歳」


 そう言うと、若い警官は八重歯の見える笑顔で言った。


「同い年だから、タメ口でいいぜ。オーサー・リー」


 先輩の前とはガラッと口調の変わったこの警官に、オーサーは面食らった。それと同時に、ちゃっかりと自分のことまで調べて頭に入っているんだなと、見かけによらない生真面目さに、ほんの少し関心もした。


「それにしても、酷ぇ事件だ」


 語気を強めて、チョルスが呟く。


「ヒルトマンの行方に心当たりは?」


 チョルスは首を横に振る。

 警察からも軍隊からも追われる中、ヒルトマンは巧みに身を隠していた。


「あの変態野郎は、警察が必ず捕まえる。それより心配なのは……」


 言いかけて、オーサーの顔を見たチョルスは口をつぐんだ。


「偉そうなことは言えないけど、警察を信じてくれよ。悪いようにはしないから」


 だがそう言ったチョルスの言葉は、更なる悲劇を止めることは出来なかった。

 ヒルトマンは警察の目をかいくぐり、全道に住むジェビンの母と養父を襲い、殺害した。


 13歳になるジェビンの弟、ユン・ナビは行方不明――

 そしてジェビンも、退院の日を待たず、警察の事情聴取も途中で投げ出し、病院から姿を消した。


 ジェビンの姿が消えたその日、警察の無能をなじるオーサーにチョルスは言った。


「あいつを、逃がしちゃいけない」

「は? 逃がしちゃいけないのは、ジェビンじゃなくヒルトマンの方だろう」


 思わずそう詰め寄るオーサーに、チョルスは激しく頭を振った。


「違うっ! 俺はあいつに、犯罪者になって欲しくないから。だから、あいつを止めなくちゃ」


 チョルスの言葉が、オーサーにもようやく理解できた。

 事件以後のジェビンの灰色のあの目。

 確かに、以前のジェビンとは違う、暗い炎を宿していたことを思い出し、オーサーは知らず、背筋が凍るのを感じていた。



 何年ぶりだろう。

 全道の生家の前に立ち、ジェビンは昔の記憶を辿ろうとした。

 小さいながらも愛情に満ちた、幼い記憶の中にある我が家は、今は闇の中に沈み、事件現場であることを示す「KEEP OUT」の黄色いテープが張り巡らされている。

 まだ現場周辺で捜査を続けている幾人かの警官の目を盗むように、ジェビンは再び闇に身を翻す。

 向かう場所は決まっていた。

 間違いであって欲しい。そこに向かって歩を進めている今も、これがKATSUSAでの辛い訓練の合間によく見た悪夢のひとつで、目が覚めたら狭い二段ベッドの低い天井が見える……そうだったら、どんなに良いだろうと思う。

 死ぬほど辛い訓練だって、今の悪夢に比べたら極上の天国だ。

 その一方で、これが抗いがたい現実だということも、ジェビンには分かっていた。

 そして、自分がこれから向かう先に、最愛の彼の弟がいることも。

 ナビを、迎えに行かなくちゃ――

 生家の裏山を登った先に、小さな作業小屋があった。その昔、農作業道具をしまっていた本当に小さなほったて小屋だったが、その土地の畑を開墾する者がいなくなり、いつしか畑もろとも打ち捨てられていたのをナビが見つけて、ひどく気にいったのだった。

 ナビは毎日でもその小屋に行きたがっていたが、床や壁が腐りかけていて危ないので、ジェビンは小屋を壊し、その木材を使って、新たなナビの城を作ってやった。木材が足りなかったので、二本の老木の間に小屋を建てることで柱の代用をしたのだが、それが却って鬱蒼とした裏山の中で死角となり、ナビは「秘密基地」だと言って喜んだ。

 両親にも友達にも秘密。

 それはジェビンとナビ、兄弟だけのまさに「秘密基地」だった。

 嫌なこと、辛いことがある時、ナビは姿を消す癖があり大人たちを困らせたが、ジェビンだけはナビの行き先を知っていた。

 そして、いつもナビを迎えに行くのはジェビンの仕事だった。

「秘密基地」は、随分前からそこに、一人でひっそりと佇んでいた。


 ナビは行方不明――


 そう聞いた時から、ジェビンにはナビの行く先が分かっていた。

 突然両親が襲われ、幼いナビが逃げ込む場所はここしかない。

 最愛のジェビンが自分のために作ってくれた、森の中の隠れ家しか。

 二本の木に守られた秘密基地の扉は、夜風にあおられ、パタンパタンと音を立てている。

 建てつけが悪くなっているせいで、蝶番の軋んだ音もする。

 ジェビンは扉に手をかけ、闇の奥を覗いた。


「……ッ」


 もう、声にならなかった。

 暗闇の中で、幼い弟は学生服のまま仰向けで倒れこんでいた。周囲にはなぜか、律義な文字がびっしりと書き写された、英語の学習ノートの切れ端が散乱していた。

 はだけた胸の白いシャツには、何か所も赤い血色のバラが咲いていた。


「……ナビ、ナビヤ……」


 ジェビンは崩れ落ちそうになるのを必死に抑えて、息絶えた小さな弟の傍に膝をつく。


「……ごめんな……兄貴ヒョンを許して……」


 冷たくなった手を取り、両手でこすり合わせる。その手にぬくもりが戻って来る筈もないのに、そうせずにはいられない。

 ナビの手を開き、血に汚れながらも握りしめていたノートの切れ端を取りだす。


(近所にとても親切なアメリカ人が引っ越して来たんだ。今では週に一回呼んで、家庭教師をしてもらっています。父さんも母さんも先生をとても気に入っています)


 不意にジェビンの脳裏に、いつかの弟からの手紙の内容が浮かぶ。


(兄さんが帰ってきたら、皆で英語で話そうって笑ってます)


 まさか――

 隣に引っ越してきたアメリカ人。

 一年前から。

 ナビの家庭教師。

 まるで勉強の途中に、逃げ出してきたかのような弟の無残な姿。


(くれぐれも身体には気をつけて。親愛なる、あなたの弟より)


 これがすべて、あの悪魔のような男の仕掛けた罠だったとしたら――。


「……俺のせいだ」


 ジェビンはナビの小さな身体を抱き寄せきつく抱きしめると、絞り出すような声で嗚咽した。



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