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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
132/219

4-40


 騒然とした宴会会場から離れると、夜半過ぎの基地内は静かすぎるほどだった。

 ジェビンは誰もいないシャワールームに入り、一番奥のカーテンを開け、すえた匂いを放つ軍服を肩から脱ぎ始めた。

 すぐにでも洗いたいのはやまやまだったが、今はベタつき火照った身体をどうにかしたいと思う気持ちの方が強かった。

 それでもジェビンは、軍服の左ポケットが濡れてしまわないように丁寧に折り返すと、隣りの個室との境の壁に投げ上げて、軍服を引っかけた。

 ポケットには、ナビを始めとする、大事な全道の家族写真が入っていた。

 蛇口をひねり、頭上から一気にシャワーの水を浴びる。

 出だしは冷たく身震いするような水も、次第に熱く湯気を放つ温度に達した。

 熱いシャワーに打たれていると、宴会の最中では気づかなかった、こめかみの辺りに鈍い痛みが走った。

 らしくもなく、飲みすぎた――

 明日除隊の気楽さから、思った以上にはしゃいでいた自分の気持ちを知って、ジェビンは苦く笑う。

 明日の夜には、家族の待つ全道へ帰ることが出来る。

 熱いシャワーの湯気は、次第にジェビンの周囲に濃い霧の幕を張りだした。

 視界が白く覆われていく内に、ジェビンの意識も心地よい睡魔とともに遠退いていきそうになる。

 だから気付かなかった。

 背後のシャワーカーテンに浮かび上がる、黒い影に。

 蛇口いっぱいにひねったシャワーがタイルの床を叩く音が、その影が微かに立てた軍靴の音も掻き消していた。

 白い霧の中でまどろみかけていたその時、背後のカーテンがシャッと鋭い音を立てて開け放たれた。

 驚いたジェビンが振り返る間もなく、彼は後頭部を鷲掴みにされ、目の前のタイルの壁に頭を叩きつけられた。


「……っな?!」


 割れた頭から噴き出す血で、視界があっという間に朱に染まる。

 凄まじい力で抑えつけられながらも、顔を歪め、ジェビンは自分を押さえつけているその影を振り返ろうと身を捩った。


「おっと、そのままで」


 押さえつける力が更に強くなり、ジェビンをタイルにめり込ませるのと同時に、ゾッとするほど低い声が、ジェビンの耳元で囁いた。


「ずっと、この日を待ちわびていたよ」


 生温かい息とともに、舌を差し込むように声はジェビンの脳髄を侵食する。


「本当は、君との初夜は羽根布団の上で、一国の姫を抱くようにしてやりたいと思っていたんだよ。だが、何せ時間がないものでね。二年の間……いや、君と初めてバーで出会ってからだから、三年だな。ずっと、こうなることを夢見ていた。今夜が最後のチャンスだと思ったら、さすがの私も胸が高鳴ったよ。どうやら、私の祈りが神に通じたようだ」


 一糸まとわぬ姿で、とてつもない力で抑えつけられているこの現状に、アルコールで麻痺した頭が付いていかない。

 それでも、熱いシャワーに打たれているはずなのに、足元から上がってくるのは、どうしようもない寒気を伴った恐怖だった。

 歯を鳴らす恐怖に抗うように、ジェビンは闇雲に身を捩って自分を押さえつける力に抵抗しようとした。

 だが、背後の力は容赦なく、ジェビンの裸の鳩尾に強烈な拳を捻じ込んだ。

 酸っぱい胃液が逆流して喉を焼き、ジェビンはシャワールームのタイルの床にうずくまりそうになる。

 その腕を掴み無理やりジェビンの身体を支えると、影は冷たいシャワールームの壁にジェビンの手をつかせ、背後から一切の抵抗が出来ないようにのしかかってきた。


「いくら美しい顔をしていても、君もKATSUSAの精鋭だ。まともにやったら、勝ち目はないだろう。本意ではないが許してくれよ。私も、君を愛するのは命がけだ」


 そう言うと、影はジェビンにのしかかったまま、腰にさした拳銃に手を伸ばした。

 次の瞬間、銃声と共に左足に激痛が走った。


「……ッ」


 声にならない呻きを漏らすと、激しく打ち付けるシャワーの湯が、自らの視界の端でみるみる朱に染まり、排水溝へと流れていく。

 焼けつくような痛みが左足首を襲い、狭い空間の熱気に当てられ、生臭い血の臭気で胸が悪くなった。


「美しい……君は、君の中に流れる血潮まで、美しいな」


 陶酔した口調で、影は囁く。


「私と君は今、ひとつになるんだよ」

「……や、めろ」


 背中に乗っていた影が、わずかに態勢を変えた。

 ジッパーを下げる乾いた音が、生臭い血の霧に包まれたシャワー室に静かに響く。

 本能的な恐怖が、ジェビンの喉をヒュッと鳴らした。


「……やめっ……ッ」


 左足を貫かれた痛みを遥かに凌駕する、全身を生きたまま引き裂かれるような激痛が、ジェビンを襲った。



 除隊を目前にして急性アルコール中毒に陥ったハタ迷惑な兵士の応急措置を済ませ、オーサーはいまだ意識不明の彼を救急隊員に引き渡した。


「どれくらい飲んだんですか?」


 隊員に聞かれ、オーサーは肩をすくめて、隣りでずっと一緒にいたもう一人の兵士に視線をやった。彼がしどろもどろに酒量を答えると、救急隊員はなぜか怒りの表情を浮かべて言った。


「この段になって、嘘をつかないでください! この様子は、そんなカワイイもんじゃない筈ですよ」

「でも、本当なんです。会の始まりからずっと俺と一緒にいたから、その前から飲んでない限り……」

「まあいいでしょう。検査すれば分かることですから」


 まごまごと弁解する兵士の尻を押して、救急車の後部座席、酒で瀕死の同僚が横たわるストレッチャーの横に押し込めると、救急隊員の男は音を立てて後ろ扉を閉めた。

 夜の闇を引き裂いて、けたたましい音を立てながら遠ざかっていく救急車を見送りながら、オーサーは妙な胸のつかえを感じていた。


(酒に弱いことは自覚してる奴だから、こんなに飲むことなんて珍しいんだけどな)

(会の始まりからずっと俺と一緒にいたから、その前から飲んでない限り……)


 もしも誰かに、知らずに飲まされていたとしたら?――


 不意にそんな考えが浮かび、オーサーは頭を振った。

 いやいや、そんなことを敢えてする理由が思いつかない。

 個人的な恨みなら、下剤でも投入してやった方が確実だし、下戸の相手にこっそり酒を盛って宴会会場に送り出すなんて、会場をゲロ塗れにすること以外にどんな効果があるというのだ。

 そんなことを考えながら会場に戻ると、あちこちに巻き散らかされた吐しゃ物で汚れた会場は、ようやく一通りの清掃を終え、そろそろお開きとなる時間だった。


「ジェビンは?」


 オーサーは、甲斐甲斐しく後片付けを始めていた兵士の一人に声をかけた。


「さあ、まだ戻っていらっしゃいません」


 兵士はそう答えると、さっさと後片付けの続きにとりかかる。

 遅いな――

 救急車の対応などに追われていたが、先ほどジェビンをシャワー室に見送ってから、ゆうに一時間は経っている。宴会の途中で、そう長風呂をするとも思えない。そろそろ戻って来てもいいはずだ。

 オーサーは会場を離れ、シャワー室へ向かった。

 シャワー室の前にさしかかった時、オーサーはむせ返るほどの熱気に、思わず足を止めた。

 ドアの隙間から、モウモウと立ち込める湯煙りと、一瞬豪雨かと耳を疑うような、激しくシャワー室の床を叩きつける水飛沫の音が廊下中に響いていた。


「ジェビン? まだ入ってるのか?」


 シャワー室のドアを開け、ほとんど視界が利かない部屋の中へ進んでいく。

 驚いたことに、六室ある個室は全て無人であるにも関わらず、そのシャワーヘッドから全開にした熱い雨を床に叩きつけていた。


「……ジェビン?」


 再び声をかけた時、オーサーは排水溝に勢いよく流れ込む水の中で、一番奥の個室から吐き出される水流だけが、毒々しい赤い色をしていることに気がついた。


「ジェビンッ!!」


 オーサーが勢いよく開け放ったカーテンの向こうには、血なまぐさい雨に打たれたジェビンの白い肢体が、うつ伏せのまま横たわっていた。



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