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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
126/219

4-34


***


 まあ、聞いてよ――。

 何? 勿体つけずに早く話せって。

 まあまあ、そんなに慌てなさんな。夜はまだ長いんだから。

 不思議だね。

 君には何でも話してみたくなる。

 包容力がありそうなタイプにはとても見えないけど。

 あ、嘘だよ。ごめん。そんなに怒らないで。

 君って本当、クソがつくほど真面目だね。

 だけどそんな君だから、話してみようと思うんだ。

 聞いた後どうするかは、君しだい。

 だけどそれにはまず、俺の昔話から、ちょっと付き合ってもらおうか。



 アメリカ、カリフォルニア州――

 本名、オーサー・リー。

 韓国名は、イ・ジミン。

 この地で、俺は韓国系アメリカ人二世として生を受けた。

 韓国の大学で学生結婚した俺の両親は、知識欲に溢れて、二人揃って自国で奨学金を得て、アメリカを目指した。

 アメリカは夢の国だと、渡米は成功者への第一歩だと、送り出す友人や親戚たちは、若い二人に口を揃えてそう言った。

 実際彼らは、教育大国韓国においても成功者と呼ばれる類の人種で、新天地での成功も約束されているものと何の疑いもなく信じていた。

 彼らの前途洋洋な道に暗雲が立ち込め始めたのは、予定外に母さんが俺を身篭った瞬間からだった。

 子どもを持つ気など更々無く、国費での留学に全てをかけていた母さんは、当然迷うことなく俺を堕ろそうとした。父さんも賛成した。

 学問の研究成果こそ、二人にとっての愛すべき「子ども」であり、生身の人間として二人の生活を妨害する俺は、「望まぬ子」以外の何者でもなかったから。

 だが、幸か不幸か、母さんは麻酔の効かない特異体質の持ち主だった。

 堕胎もできず、俺を宿したお腹はどんどん大きくなる。

 勉強を続けられなくなった母さんに奨学金を出し続けるほど、国も甘くはない。

 奨学金を打ち切られ、母さんと生まれた俺を養わなければならなくなった父さんも、志半ばで大学を辞め、慣れない肉体労働にいそしむことになった。

 拙いコミュニケーション能力、文化の壁、上手くいかない仕事、海の向こうから希望と野心に燃えてやって来たのはいいけれど、途端に壁にぶち当たった東洋人の家族を気にかけてくれるほど、アメリカは親切でもなければ、余裕のある国でもなかった。

 学生時代、激しい恋に落ちて結ばれたはずの両親はケンカが絶えなくなり、とうとう父さんは同じ職場で働くフィリピン女と連れ立って出て行った。 

 かつて永遠の愛を誓ったはずの妻と、まだ幼い息子を残して。

 インテリ崩れの母さんが、その後俺をどんな思いで育てたのか、それを思うと今でもやりきれなさが募る。

 基地の近くのパブで、米兵相手に酒を告ぎながら、母さんは俺を育てた。

 勉学への欲求は彼女のさがなのか、泥酔して帰って来ても、水を大量に飲み干し、トイレで何度も嘔吐した後、彼女は一人ラジオのチューナーを回しノートを広げ、英語の勉強をしていた。

 それは、ただ単に、酒の席で米兵の相手をするための実用的な目的以外に意味はないのかもしれないが、俺にはいつも、母さんの女学生のような華奢な背中が、失った青春の名残を一心不乱に追いかけているように見えて哀れだった。

 母さんは、自分とかつての自分の男の夢の全てを俺に託した。

 いっそ俺が、母さんに微塵も期待を抱かせないような出来の悪い息子だったら、話はもっと簡単だったかもしれない。

 だが、なまじ俺は勉強が得意だった。

 母さんが、自分の青春の幻影を投影するには充分なほどに。

 大学へ進学するという時になって、俺は一人で韓国へ戻る道を選択した。

 水商売が板に付き始めていた母さんの生活の荒み具合は、年々深刻を極めていったが、真正面から向き合って暗くなるのはゴメンだった。だって、そんなことをしたら、拠り所のない俺はきっと、二度と立ち上がれなくなる。

 どうしようもなく辛い時こそ、ヘラヘラ笑う術を覚えた。

 深刻な顔で眉間に皺を寄せ、ヒステリックに怒鳴り散らすのは、母さん一人で充分だった。

 だって、俺にはまだ幼い弟がいた。

 母さんが、名も知らぬ行きずりの米兵との間に生んだ弟。


 ジョセフ・リー。


 俺が18歳の時、彼はまだ2歳。

 何も分からない彼でも、俺がいつも楽しそうに笑っていることは分かっていたから。

 韓国の大学の医学部を受けたいと言った時、母さんは俺がまた、いつもみたいなつまらない冗談を言っているのだと思っただろう。

 見栄っ張りの母さんにとって、息子の医学部進学は元夫の鼻を明かしてやるまたとない好材料には違いなかったが、実際、渡航費用や受験費用を捻出する余裕はなかった。

だが俺が、ハイスクールの三年間、米兵があつまるバーのボーイのバイトをして溜めた金を全てつぎ込むからと食い下がると、母さんは渋々了承してくれた。

 俺が合格するなんて、夢にも思っていなかったから。

 中学卒業と同時に、母親に忠実な「いい子」を捨て去った俺は、ハイスクールではまともに授業に出たことはないし、いつも東洋人、西洋人分別なく、女の子と楽しく軽く遊びまくっていた。そんな俺が、まさか韓国国内においても名門の呼び声高い、明慶大学医学部を受験できるくらいの学力があるなんて、思いもよらなかった筈だ。

 そんなに言うなら、記念受験のつもりで受けてみればいい。

そんな気持ちだったはずだ。

 だけど、俺は見事に合格した。

 マグレ、じゃない。

 中学に入った時から決めていた、俺の『脱出計画』が成功したにすぎない。

 誰にも知られず、夜遊びから帰った後も、俺は毎日毎日必死で勉強をした。

 早く早く、このどうしようもなくやるせない日常から抜け出したくて、必死になった。

 逃げ出した父さんの代わりに、一家の長男である自分が、頭でっかちで不安定な母さんと幼い弟を守らなければならない。

 何があっても、守りたい。

 そう思う気持ちと同じ強さで、プレッシャーに押しつぶされそうだった。

 腐れ縁という名で繋がった家族に、俺の未来ごと押しつぶされそうだった。

 

 ずっと一緒にいたい。

 離れたい。

 離れたくない。

 解放されたい。


 気持ちのせめぎあいが続いた。

 だけど、俺は結局、一人で海を渡ることを決意した。

 今は、離れなきゃいけない時期だ――

 言い訳のように、自分に言い聞かせて。


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