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「珍しいね。今日はあのオマワリさんはいないの?」
オーサーはチョイチョイと軽く手で合図して、ミンホにも座るように促す。
「チョルスヒョンは……当直なんで」
ミンホは中腰のまま、そのまま向かいの席に座ることを躊躇する。
いつもニヤニヤして何を考えているのか得体の知れないこの男が、ミンホは正直苦手だった。
やたらとナビにベタベタとスキンシップし放題なところも気に食わない大きな原因の一つだったが、ミンホの中の理性が、そんなことに腹を立てている自分を認めたくなかった。
「君も一人で飲むことなんてあるんだ。もしかして、ヤケ酒?」
どこまでミンホの気持ちを読んでいるのか、それとも、ただ気まぐれにカマをかけてきているだけなのか、その人を食ったような表情からは読み取れない。
「そんなんじゃないです」
ミンホはオーサーから目を逸らして、店主が出してくれた焼酎に手を伸ばす。その横から、オーサーが素早く焼酎の緑色の瓶を奪う。
「まあまあ、一杯」
「年上の人に、先にお酌させるなんて出来ませんよ」
「いいからいいから、気にしなさんなって」
そう言って、オーサーはミンホのコップになみなみと焼酎を注いだ。
「君とばったり出くわすなんて、ペニーレインを見つけるより低い確率じゃない? 運命の出会いに、乾杯!」
オーサーはミンホに注いでもらった焼酎を高々と掲げると、勝手にミンホのコップに自分の杯をカチンと合わせた。
途端に溢れそうになる焼酎に、ミンホも慌てて口を付ける。
望まぬ運命の出会いがもたらした酒宴が、ミンホの意思に関係なく開催されようとしていた。
「今日は無礼講だからさ、腹割って、ぶっちゃけトークしようよ。君の先輩もいないことだし、あの怖ーいジェビンもいないから、お玉でぶっ叩かれることもないしね」
オーサーは上唇に残ったの焼酎をペロリ赤い舌で舐めながら、そう言って片目をつぶる。
ミンホはもうどうにでもなれ! という心境で、自分もグイッと一気に残りの焼酎を煽った。
「でさ、君のヤケ酒の原因は何?」
「ヤケ酒だなんて、僕、いつ認めました?」
焼酎の緑色の瓶を二人で何本も空けた頃、いつの間にか隣りの席に移動してきたオーサーは、真っ赤な顔をして隣りのミンホを見上げて言った。
ミンホは顔色こそ少しも変わっていなかったが、既に呂律が怪しくなってきていた。
「認めちゃえば、楽になるよ」
オーサーはミンホの肩をポンポンと馴れ馴れしく叩きながら、好物の枝豆を口に運んだ。
「……笑い、ませんか?」
「もう、笑ってるぅ」
アハハーとはしゃぐオーサーを、ミンホはジットリと睨みつける。オーサーは慌てて口を噤んだ。
「嘘だよ。言ってみな」
オーサーがそう促すと、ミンホは据わった目のまま低い声で呟いた。
「……一体、何なんですか? あの二人は」
「二人?」
それが誰を指すのかくらい、聞かなくても分かりきっていたが、オーサーは意地悪く尋ね返した。
「だから……その……本当にただの兄弟ですか?」
「どういう意味?」
「だから、付き合ってるんじゃないんですか?!」
半分ヤケのように吐き捨ててから、ミンホは酒でも赤くならなかった顔を染めた。
「何を疑ってるのか知らないけど、仮に本当の兄弟じゃなかったとして、男同士だよ?」
「男同士?! 本当にあの人は男なんですか? だって、この間……」
思わず赤面して続きの言葉を継げないミンホに、オーサーは冷静に切り返す。
「ああ、確かにこの前は誤解されるようなところを怪我してたからね。だけど、何でそんなにナビヤの性別にこだわるの? 女の子であって欲しいとか?」
オーサーの意地悪が続き、ミンホはムスッとして押し黙る。
「ナビが男か女か、君にとっては重要なこと?」
「いいえ」
キッパリと、ミンホは首を横に振る。
「男でも女でも、あの人はあの人です」
開き直ったようにそう告げるミンホの決然とした横顔に、オーサーは焼酎を煽る手を止めて、思わず見入ってしまった。
この男は――
やがて堪えきれずに、オーサーはクスクスと笑い出した。
「アハハ……ごめん、ごめん。悪かったよ。ちょっと意地悪しすぎたね。君って、面白いねぇ。そこは、素直に認めちゃうんだ」
好きな人が自分を見てくれない苛立ちに悩みはしても、『好き』な気持ちには素直で正直なのだ。
普通は、『男』を好きになってしまったこと自体に、もっと悩みそうなものだが、ミンホは自分の気持ちを少しも否定したりはしない。
真っ直ぐに背筋を伸ばした生き方に育ちの良さを感じて、オーサーは興味深げにミンホの横顔を観察した。
「……この前言ってた、あの二人の『痛み』って何なんですか?」
ミンホが下からオーサーをジッと見上げながら問いかける。
「君の先輩に聞かなかったの?」
「……あのオーナーの、名誉に関わることだからと」
「ふふ……チョルスらしいね」
オーサーは笑い声を零すと、ミンホに向き直って言った。
「いいよ。君には聞く権利がある。いざとなったら、ジェビンとも真っ向勝負する気なんでしょ?」
オーサーの言葉に、ミンホは顔を上げ、返事の代わりに強い視線でオーサーを見返した。
「ナビが好き……そうだろ?」
今度はミンホは、唇をキュッと噛み締めて、はっきりと頷いた。
オーサーはニヤリと笑った。
「いい覚悟だね。君も本気なら、俺も本気で答えてあげるよ」
そう言うと、オーサーは焼酎の入ったコップを置いて言った。
「ジェビンはね、ずっと一人の男を追ってるんだ。自分を犯して、家族を殺して逃げた男をね」
サラリと語られたオーサーの言葉の意味が理解できずに、ミンホは目をしばたたかせた。
「今……何て?」
オーサーは相変わらず柔和な笑顔を浮かべたまま続ける。
「俺がジェビンと知り合ったのは在韓米軍のキャンプに従軍してた時でね。奴は、KATSUSAで兵役中だった。米軍とKATSUSAの内部争いは有名な話しで、謂わば俺らは日常の小競り合いの敵方同志だったわけだけど、妙に気が合うとこがあって、よくツルんでた。奴は当時から何しろ目立つ奴だったから、よく『その手』の連中からは狙われてたけど、それだって、趣味の悪い冗談の延長みたいなもんだった。あの事件が起こるまでは――」
事件――
確かにチョルスも、そう言った。
初めて『ペニーレイン』を訪れた時、既にジェビンと知り合いのような様子を見せていたチョルスに、帰り道で尋ねると「ある事件の関係者だった」と、そう言っていた。
だがそれは、ミンホが想像もしていなかったような陰惨な事件だった。
オーサーの口から語られるジェビンの『痛み』と、それに寄り添うナビの『痛み』の本質を、ミンホはこの時初めて知ることになる。