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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
124/219

4-32



「さあナビちゃん、おネンネしましょうねー」


 猫なで声を出しながら、オーサーはベッドの前で、背後からナビのエプロンを外しにかかる。

 言われるがままエプロンから腕を抜くナビの細いうなじが、萎れた花のようにうな垂れている。


「ナビちゃん?」


 声をかけるも、とうとうナビはその場で固まったように動かなくなってしまった。

 オーサーはその強張った肩を優しく擦りながら、ポツリと言った。


「……ジェビンは、ダメだよ」


 ハッとしたように振り替えるナビの黒目勝ちな瞳に向かって、優しく言い聞かせるように、オーサーは首を横に振る。


『……どうして?』


 ナビの目が、無言でそう尋ねている。


「ジェビンの心の中にはね、絶対に忘れられない相手が住んでるんだ」

『……好きな人、いるんだ?』


 筆談用のメモ帳の代わりにオーサーの左手を取って、ナビは指を走らせる。

 無理に感情を殺したような機械的な動きでその言葉を綴った後、ナビはジッとオーサーを見つめて、その答えを待った。幼いながら、胸の内の動揺を悟られまいとするその虚勢が、却って痛々しかった。



 可愛いナビヤ――

 君はまだ気付いていないの?

 忘れられないのは、愛だけじゃない。

 例えばそれは、ジェビンの中の憎しみ。

 例えばそれは、君の中の恐怖。

 似た者同士の君たちは、それぞれの雨の記憶の中で、互いに寄り添い合う。



『……僕じゃ、ダメ?』


 泣き出したい声の代わりに降ってくる、手のひらの上のメモの雨に、オーサーは優しく答える。


「ナビだけじゃないよ。誰もジェビンの心の中には住めない。だけど、ジェビンは誰よりも君を大切に思っているよ」


 ナビは俯き、伸び放題になっているクセのない黒髪がその表情を覆い隠す。


「ねぇ、だからさ……俺にしときなよ」

『……バカ』


 最後のメモを綴ると同時に、ナビは相変わらずのオーサーの軽口に初めて微かに笑った。その拍子に、瞳の端から零れた小さな涙の雫が、オーサーの手のひらの上で弾けた。



***


 

(次会う時は、誘います……断る権利、あなたにはありませんから)


 エレベーターの中で、勢いでぶつけてしまった言葉を思い出しては、ミンホは頭を掻き毟りたいような気持ちに襲われていた。

 完全な嫉妬だと、分かっている。

 いつもどこかフワフワ危なっかしいナビと、そんなナビの側に影のように寄り添う兄ジェビンには、とても入り込めない絆を感じて、ずっと胸の奥がチリチリと焼けるような気持ちを感じていた。

 その気持ちは、日を追うごとに加速度的にミンホの中で膨れ上がり、ついに怒りと焦燥に任せて、別れ際に、まるで八つ当たりするような告白をしてしまった。自分がこんなにも不器用な人間だったということを、ミンホは初めて知った。

 考えてみれば、好意をぶつけてくるのはいつも相手の方で、自分は受け取るだけだった。今まで、女性と付き合ったことがない訳ではない。人並みに恋愛経験はあるつもりだった。

 だがそれは、ぶつけられた好意の中から、ただ自分が好むものを選んでいただけなのかもしれない。

 ナビに感じるように、思い通りにならないもどかしさなど、感じたことはなかったから。思い通りにならなければ、それはその関係の終わりを意味し、終わることに別段何の感慨も湧かなかった。

 もどかしく思うのは、それだけ自分から欲している証拠であり、ミンホにとってそんな経験は初めてのことだった。


 まさか、初恋?――


 一瞬脳裏に浮かんだ考えを、ミンホは慌てて否定する。

 いくらなんでも、それはないだろう。

 物心つく頃から、飛びぬけた容姿を褒められ、女性に不自由したことなどなかった自分が、まさか、子どもっぽさの極みのようなあの人にどうしようもなく本気で惚れてしまうなんて。

 短く切りそろえたうなじの髪を掻きながら、並んだテント屋台の軒先をくぐる。

 今日はチョルスは当直で一緒に飲む相手はいなかったが、一人でアパートに帰ってもまた、同じようなことを堂々巡りで悩んで結局飲んでしまうのだから、同じことだった。


「……焼酎と、サンチュ」


 長い足でテントの中の座席を跨ぐと、注文を取りに来た店員に向かって短くそう告げる。


「サムギョプサルにしなよ。草ばっか食べてたって、獲物は堕とせないよ」


 鼻にかかった独特の低く甘い声が、含み笑いを漏らしながら横から割り込んできた。


「……っ!?」


 顔を上げ、声のする方を見たミンホはギョッとした。

 ミンホほどではないにしても、やはり充分すぎるくらいの長い足で座席を跨ぎ、許可無く向かいの席に腰をかけたのは『ペニーレイン』の常連客、オーサーだった。




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