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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
122/219

4-30

***


「さあさ、上がって上がって。汚いとこだけどさ」


 そう言って、床に散らかしたままにしてある綿のシャツを蹴って歩く。オーサーの足にひっかかったそれは、さながら床を拭く雑巾に早変わりしたようだ。

 オズオズと玄関先に佇んでいるナビに気付いて、オーサーは足元に絡んだシャツを廊下の脇に追いやって戻って来たかと思うと、あっという間にナビの背後に回りこんで、その背中を押した。


「そんなに怯えなくても、取って喰いやしないよ。そっちの怖いお目付け役もいることだしね」


 そう言って、ナビの足元から相変わらず意地の悪そうな視線を送っている灰色猫を顎でしゃくる。

 それでもなかなか部屋の中へ入れないナビを根気良く待っていたオーサーだったが、ナビの心が強張ったままであることを察して、ナビの肩に両手を乗せて、その耳元に囁いた。


「大丈夫。心配しなくても、ジェビンは必ず迎えに来るから。今は少しだけ、時間が必要なんだ。分かってあげて?」


 不意打ちの優しい言葉に、堪えきれずナビの目からポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。


「それまでは、むさ苦しいところだけどさ、ここで我慢してよ。代わりと言っちゃなんだけど、イケメン執事が常時側にいて、手取り足取り、可愛いニャン子姫のお世話をするからさ」


 ポンポンと気安い調子で肩を叩くオーサーに、ナビは泣き笑いの表情を浮かべて弱々しく頷く。

 慰めるように足元に擦り寄る灰色猫に導かれ、ナビはようやくオーサーの部屋の中に歩を進めた。


(傷の舐め合いが心地いいのは分かるけど、自分の傷だけで手一杯のお前が、この先もずっとあのコを抱えていけるの? あのコのパパになるつもり?)


 静寂の中で、脳内で繰り返されるオーサーの声が耳に痛い。

 ナビも灰色猫のオンマもいなくなったアパートは、酷く静まり返って寒々しい雰囲気に包まれていた。


「本当だったら、いい野良ちゃん拾ったねって言ってあげたいとこだけどね」


 珍しく苦い表情を浮かべて、オーサーは続けた。


「お前にとっちゃ、トランキライザーよりよっぽど効果的な精神安定剤になるのは分かってるから。それを、あのコの人権はどうなるんだの何だの、薄っぺらい人道主義で責めるつもりもないよ」

「じゃあ、何だよ。何が言いたい?」


 追い込まれた気持ちで、ジェビンの灰色の目が光る。

 そこには、明らかに焦りの色が浮かんでいた。


「あのコは“飼い猫”だよ」


 オーサーの言葉に、ピクリとジェビンの眉が動く。


「気付かなかった? あの子の左耳のピアス……あれは、誰かの所有の証だよ。 首輪と一緒だ」

「何だよそれ。お前お得意の妄想か?」


 ハッと大きく息を吐いてジェビンはわざと呆れたような声を出す。直視したくない現実を、だがオーサーは淡々と突きつけた。


「人に触れるのを怖がる。さっき風呂に入れる時も、異常に怯えてた。お前にすら、自分から触れようとはしないでしょ? それに傷だらけだ。シャツで隠してるけど、背中から太腿からそこらじゅうに、古いのも新しいのも合わせて酷い折檻の痕が残ってる。それにね、ジェビン……」


 オーサーは一旦言葉を区切り、彼にしては珍しく、逡巡するように間を置いて、やがて意を決したように口を開いた。


「あの子は、俺に口止めしようとしたんだよ。自分が女の子だってバレて、お前に追い出されるんじゃないかって心配して。月イチ行事も教えられてこなかったコが、自分の身体で口止めする術は知ってるんだ」


 オーサーの言葉に、ジェビンは無意識に血が滲むまで唇を噛み締めていた。

 あの痩せ細った、痛々しい少年にしか見えないナビが、どんな気持ちでオーサーに身体を投げ出そうとしたのか、考えるほどに胸が詰まった。

 同時に、昔からバカで軽い振りをしながらも、侮れないオーサーの聡さに、理不尽と分かっていても怒りが込み上げてくる。

 悔しいがオーサーの言うとおり、この三ヶ月自分は側にいただけで、その実ナビのことを何も見ていなかった。

 出会ったばかりのオーサーが気付いたナビの“痛み”に、自分は何一つ気付いてやれなかった。

 いや、気付こうとしなかった。

 自分の“痛み”に耐えるのに精一杯で、ただ単にナビを慰めにしていたに過ぎない。


「……声も、ね」


 落ち込むジェビンにダメ押しするように、オーサーは続ける。


「きっと、生まれつきしゃべれなかったわけじゃない。あのコの前の“飼い主”のせいだ」

「……お前相変わらず、本当に変なところだけ鋭いな」


 悔し紛れにジェビンがそう言うと、オーサーは口元だけに、形式的な笑みを浮かべて言った。


「だから、気をつけてよ、ジェビン……優しくされたら、好きになっちゃうじゃない」


 言われていることの意味が分からず、ジェビンが眉を寄せる。


「何のことだよ」

「本当は、分かってるでしょ?」


 口調は柔らかいが、その目にはジェビンをたしなめるような強い色が浮かんでいた。


「あのコはお前の“ナビ”じゃない。答えてやる自信がないなら、突き放すのが優しさだよ」


 不意打ちを食らったように、ジェビンの動きが止まる。

 悔しいが、今は何一つオーサーに返せる言葉がなかった。


「お前の気持ちの整理がつくまで、俺があのニャンコちゃんを預かるよ」

「なっ?! それは……」

「ずっとなんて言ってない。お前が答えを出すまでの間だよ」


 最後に、オーサーはほんの少し意地の悪い笑顔を作って言った。


「でもあんまり長い時間はかけないでね。俺もいつまでも紳士ってワケじゃないからね」


 軽いウインクまでつけてくる。

 完全に遊ばれているのが分かって、ジェビンは机の下で思い切り、オーサーの向こう脛を蹴飛ばしてやった。




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