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*
「ジェビンか、おい?!」
縋りついた、筋の張った太い腕に支えられて、ジェビンはやっとの思いで顔を上げる。
滲んだ視界の隅で、馴染み深い不精髭が、細い目を驚きに見開いている。
「何だってこんなところに……」
「ナビが……」
「え?」
「ナビがきっとこの中に……」
「この中って、『デュータ』の中か? そんな筈ないぞ。ここはちょっと前に封鎖して、民間人は全部外に……」
いいかけて、チョルスは周囲の人垣を見渡す。
「いないのか?」
嫌な予感がした。
目の前で見る見るうちに色を失っていく端整な顔が、暗にチョルスの問いを肯定する。
「おい、間違いないのか? 家を出たのはいつだ? ひょっとして途中で気が変わってここには来てないんじゃ……」
「俺の着替えを買いに出たんだ。深夜に開いてる店を探して。オーサーに、確かに東大門に行くと言ってた」
ジェビンは息も絶え絶えになりながら、必死でチョルスの腕に縋りつく。
「捜してくれ! 頼む……俺のせいで、二度も大切な弟を、失いたくない」
脂汗に混じって頬を光るものが伝い落ちる。
チョルスはもう何年も前、初めてこの美貌の男に出会った頃のことを思い出す。今よりもずっと線が細く頼りなかったが、屈辱と復讐に燃える目だけが、鋭いナイフのような異様な冷たさで光っていた。
だが、今はどうだろう。
あの頃のままの美貌は相変わらずだが、冷たい目の光は大分影を潜めていた。
それが、彼の“弟”のせいであることも、チョルスには分かっていた。
『エデン』事件の際、ジェビンが経営する『ペニーレイン』の名が出てきた時、チョルスは確かに厄介だと思いながらも、久しぶりに顔を合わせたジェビンの穏やかな表情に、心底ホッとしたものだった。
唯一の守るべき者を失い、血の通わない復讐人形のようなジェビンより、それは弱点と表裏一体でありながらも、かけがえのない存在を抱きしめているジェビンの方が、チョルスは余程好きだった。
「安心しろ。ナビは絶対、見つけてやる。それに、『デュータ』の中にはミンホもいるんだ。もし仮にナビがあの中に取り残されてたとしても、あいつがナビを守るよ」
そのミンホと、本当は『デュータ』の中ではぐれたのだという事実を、チョルスは黙っていた。
自分の後ろを着いてきているとばかり思っていたミンホを振り返った時、彼はチョルスに背を向けて、閉じかけたエレベーターへ向かって駆けて行くところだった。
チョルスが静止の声を挙げるより早く、ミンホはその身体を僅かばかり開いていたエレベータのドアに捻じ込ませていた。
距離が離れすぎていたため、チョルスがエレベーターに駆け寄った時には、既にミンホを乗せた箱は上昇を始めていた。
「あのバカ」
本部からの作戦指令で、もうじき『デュータ』の電源を一斉に落とすことを知っていたチョルスは、急いで階段で先回りしようと踵を返した。だが、非常階段を駆け上がる途中で、無常にも予定通りに電源は落ち、ミンホを乗せた小さな箱は、彼を閉じ込めたまま、闇の中で動きを止めてしまった。
あの箱の中に何を見て、ミンホは駆け出したのか。
犯人が見つかっていない以上、ブラックボックスと化した密室の中には、得たいの知れない危機が潜んでいるかもしれない。
別の応援部隊が到着し、本部の命令で、一旦建物の外へ出されたチョルスは、周辺警備をしながらも、エレベータに取り残されたミンホを救うべくジリジリと潜入する隙を窺っていた。
そんな時に、『デュータ』の前でジェビンを見つけたのだった。
「ジェビン、ここで待ってろよ。俺がナビを連れてきてやる」
そういい置いて、その場を離れようとしたが、チョルスのヨレたシャツの裾を、ジェビンは掴んで離さなかった。
「……俺も行く」
*
「ちょっと、見せてください」
床に転がったナビに圧し掛かるような形で、ミンホはナビの白い足首を掴む。
「何でも無いったら! 放っといて!」
ミンホの手から逃れるために、ナビは必死で身を捩る。暴れれば暴れるほど、下腹の痛みは強くなる。
「何でも無いわけないでしょうっ! だって、ほら……」
言いかけて、ミンホはナビの太腿の上で滑った感触に思わず動きを止める。非常灯の下で見る自分の手は、ナビの太腿を汚すものと同じ、真っ赤なもので濡れていた。
「……血? こんなに……」
職業柄、事件や事故に遭遇して血に塗れた怪我人を見ることにはある程度の耐性が着いていたが、一瞬気が遠のくような感覚に襲われた。
どこか刺されているのか?
疑ったのはそんなことだった。
だが、先ほどまで元気に自分といつもの言い争いをしていたナビが、いつの間にそんな大怪我を負っていたと言うのだろう。
それよりも――
今、ミンホの腕の下で身を捩じらせているナビの額に浮かぶ脂汗と、無意識に痛みから下腹部を庇うナビの様子は、ミンホにある一つの混乱を与えていた。
まだ実家で暮らしていた幼い日々、母は月に一度、必ずリビングのソファーを占領して、今のナビとそっくりな姿勢で横たわっていた。
心配するミンホに母はいつもちょっと照れたように笑いながら『女の人の月に一度の仕事なの』と話していた。
だから、労わるように――
“女の子”には、優しくしなさい――
物心着く頃から、そう教わってきた。
“女の子”には――
「……これは一体、どういうことですか?」
苦しげに息を継ぎながらも怯えた目でミンホを見上げるナビに、ミンホはただ呆然と、血に濡れた自らの手と、身体の下のナビを交互に見つめるだけだった。
その時、再びガクンッと大きな音がして、二人を乗せた小さな箱が軋んだ。
衝撃で、ミンホがバランスを崩し、血のついた手をナビのすぐ横に着き、二人の顔が近づいた。
思わず至近距離で見詰め合う二人の間を裂くように、密室を仕切っていたエレベータのドアが突然開いた。
顔を上げたミンホの前には、長身のチョルスと、鬼の形相で立っているナビの兄、ジェビンの姿が見えた。
「何してるっ?! ナビから離れろっ!」
そう叫ぶと、ジェビンは一瞬でミンホに詰め寄り、その拳で躊躇なくミンホの端整な顔を殴り飛ばした。