4-27
「は?……お前……何言って……」
「全く気づかなかった? ニャンコちゃんと暮らして、どのくらい経つの?」
「……三ヶ月」
ハッと息を漏らして、オーサーは大げさに天井を仰いだ。
「それだけ一緒にいて、何で気が付かないかね。俺にはその方が不思議だよ」
「そんなこと言ったってっ! 一緒に風呂に入ったりしない」
「風呂に入るまでもないでしょうが」
呆れたと言わんばかりに、オーサーはジェビンの肩を小突いた。
「お前は、何を見てきたんだ? ジェビン」
お宅――などと、ふざけた呼び方はしない。オーサーの目は、真剣にジェビンを咎めていた。
「“あのコ”自身のことなんか、何にも見てやしない。お前は、あのコを通して、“お前の弟”の幻を見てたんだ」
反論しようと口を開きかけたジェビンに、片手を挙げてその発言を封じて、オーサーは続けた。
「悪いけど、言わせてもらうよ。よく見るまでもなく、あのコだってワケ有りだ。年頃は、13、14ってとこだけど、本当はもう少し上かもしれない。あんなにガリガリにやせ細って、未発達もいいとこだからね。おまけに、あの年になるまで、女の子の月イチ行事のこと、何も教えられてきてないんだから」
あまりのことに言葉を失うジェビンに、オーサーは決定的な一言を放った。
「あのコが何で、男の格好してるか知らないけどね。最初は、お宅が“弟”を重ねるためにわざとやってるのかと思ったけど……」
「違うっ! だって、俺はずっとあいつを……」
「だよね。それは、さっきので分かったよ。知ってて、“弟”にしたんだったら、俺も黙ってなかったけど」
腕をポキポキ鳴らしてみせながら、オーサーは皮肉気に口を歪める。
「さあ、知った今、これからが大事だよ。傷の舐め合いが心地いいのは分かるけど、自分の傷だけで手一杯のお前が、この先もずっとあのコを抱えていけるの? あのコのパパになるつもり?」
ジェビンには何一つ、返す言葉が無かった。
***
「ねえっ! ちょっと、待ってよ! 待てったら!」
地下鉄の終電時間はとおに過ぎていたので、ジェビンは自分たちの住まいであるキャンピングカーをそのまま発進させ、一路、東大門に向けて、荒い運転を繰り広げていた。
急発進、急ブレーキに何度もガクガクと頭を揺さぶられ、助手席のシートに貼り付けにされながら、オーサーは前に詰まったタクシーに向かってクラクションを叩き鳴らすジェビンを何とか正気に戻そうと叫び続ける。
「お宅、どんだけ薬打たれたか分かってる? ちょっとやそっとの飲酒運転の比じゃないよ? こんなに警察もワンサカしてて、捕まったら元もこも……」
「ッチ、封鎖してやがる」
オーサーの言葉も届かない様子で、ジェビンは思い切り舌打ちをして、とどめとばかりに最大音量でクラクションを叩く。
「当たり前でしょ。今頃『デュータ』の前は、警察と野次馬と報道関係者でごった返してるよ。車で乗りつけようなんて、甘……ちょっとっ! 人の話は最後まで聞いてよっ!」
オーサーの悲痛な叫びも虚しく、ジェビンは今やテールランプの群れの一員と成り下がった、自らの住居兼愛車のキャンピングカーをさっさと乗り捨てて、夜道を走り出していた。
「ジェビンッ!」
慌てて、どんどん遠ざかる背中を追いかけようとオーサーが助手席のドアを開けた瞬間、背後から狙っていたかのようにけたたましいクラクションの大合唱が鳴り響いてきた。
運悪く、ジェビンたちの乗るキャンピングカーが渋滞の迂回路である路地への入口を塞いでいた。
「ああっ、もうっ! 本当に人騒がせな兄弟なんだからっ」
誰にも届かない鬱憤を叫んで、オーサーは勢いよく助手席のドアを閉めた。狭い車内を、長身の彼は身を縮めた情けない格好で、ゴソゴソと運転席へと移る。
そんなオーサーの様子を、開いた助手席に悠々と陣取った灰色猫のオンマが、シラッとした目で見つめている。
「この貸しは高くつくよぉ」
恨めしげにそう唸ってから、オーサーは集中砲火のように浴びせられる非難のクラクションを背に、迂回路に向かって思い切りハンドルを切った。
一方、乗り捨てた自らのキャンピングカーのこと、ましてやその中に置き去りにしてきたオーサーのことなど微塵も頭にないジェビンは、息を切らせながら完全封鎖された『デュータ』の前まで辿り着いていた。
当然ながらそこには厳重な警備体勢が敷かれ、封鎖前に『デュータ』の中から避難してきた客と、その客らにインタビューを取ろうと必死な報道関係者、さらにそれを遠巻きにする野次馬の群れで、身動きが取れないほどの人垣が出来ていた。
「ちょっとどいてください! ナビッ! ナビヤッ! どこにいる? 返事しろ!」
オーサーにしこたま打たれた薬の効果が切れない内に急に動いたせいで、目の前がチカチカ点滅し、吐き気が込み上げてくる。だが歯を食いしばって、ジェビンはナビの名を呼んだ。
「……ウグゥッ」
急な嘔吐感に耐え切れなくなり、ジェビンはアスファルトに膝をついた。腹を押さえ涙目になって蹲るジェビンの肩を、その時大きな手が掴んだ。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
涙目になって見上げた先には、よく見知った人物――
長身のシルエットと不精髭。
これ以上ないくらい、傷つき己の弱さに打ちのめされ、やり場のない憎しみにとり憑かれていた時、医者にさえも触れられることを頑なに拒んでいたあの時でさえ、唯一そんな彼のバリアを破って彼に触れてきた大きな手。
「……チョル……ス」
肩を掴む手に逆に縋るように、ジェビンは逆光の中のシルエットに救いを求めた。