4-25
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男性物の香水に、ほんの僅か、ジャケットに染みこんだ血の匂い。
しなやかな筋肉に覆われた広い背中に頬をつけ、ナビは心地良い振動に身を委ねていた。
「……ごめんな」
時折聞こえてくるジェビンの声の後に、聞いたことのない軽薄な調子の声が混じる。ずっと側についていた、灰色の痩せた猫の声も。
夢と現の間をさ迷いながら、ジェビンは何を謝ることがあるのだろうとナビは思う。
捨て猫同然の自分をゴミ溜めから拾い上げ、側にいることが居たたまれず思わず家を飛び出せば、こうして迎えに来てくれる。
一体今までどこの誰が、そんな優しさを自分にかけてくれたというのだろう。
謝るのは、僕の方――
そう言いたくても、意識以上に重い唇は、なかなか思ったように言葉を繋いでくれない。
それならば……と、ナビはもう少し甘えて、ジェビンの背中に自分の体温を預けたままでいたかった。
「俺にもオンブさせてよぉ。可愛いニャンコちゃん」
「ふざけるなよ、誰がお前なんかに」
「夜中に突然呼び出しといて、何の役得もないなんて、アリィ?」
軽薄な男に応対するジェビンの声はナビに向かうのとは対照的に冷たかったが、その声の奥にはどこか、気の置けない仲間だけに見せる微かな甘えのようなものが感じられた。
目を開けている時には分からなかった、ジェビンの素の部分に触れられたような気がして、ナビはこのまどろみの時間を心地良く感じていた。
だがそんな気持ちとは裏腹に、下腹部に鈍い痛みが走る。
背に揺られる振動で、その痛みは徐々にではあるが、明らかに重さを増していく。
やがて額にジットリと、脂汗が浮かぶまでになってきた。
痛みに思わず漏れた呻き声に、ジェビンの歩みが止まった。
「ナビ?」
首を回して、背中のナビを見やる。
「おい、どうした?」
隣りを歩いていたオーサーも、ナビの青白く血の気を失った顔を覗き込む。
その時、ナビの細い足を抱え込んでいたジェビンの手に、ヌルリと生暖かい何かが触れた。
電球が切れかけ、チラチラと点滅する古びた街灯の下にその手をかざしたジェビンは、一瞬、息を呑んだ。
「お前、どこか怪我して……」
慌ててナビを背中から降ろすと、ナビはそのまま力なくアスファルトの上に崩れ落ちた。
「ナビ! ナビヤッ!」
パニックになったジェビンが、縋るようにナビの肩を揺する。その手を払い除けて、オーサーは冷静にナビを横抱きにかかえあげた。
「おいっ! 何するっ」
「ジェビン、このニャンコちゃん、ちょっと貸して」
「ふざけるなよ! だってそいつ、怪我して……」
「怪我じゃないよ、多分ね」
「だって、血が……」
「忘れちゃった? 俺、こう見えてもお医者さんの卵だったのよ。ニャンコちゃんのためを思うなら、今は、俺に任せた方が得策だと思うけど」
口調は柔らかいが、そこには有無を言わせぬ力があった。
オーサーには、昔からそういうところがある。普段はこれ以上ないくらいいい加減で軽薄なのに、いざとなると誰よりも冷静な強さを見せる。それが分かっているから、ナビを捜す時、真っ先にこの男の顔が浮かんだのだ。
二年間もの間、誰とも連絡を断っていたというのに。
「お宅のジャケット貸して。身体をこれ以上冷やさないように、とにかく早く家に帰ろう」
そう言うと、ナビを軽々と抱えたまま、自ら先頭に立って歩き出した。
猫のオンマは何もできないジェビンにチラリと非難めいた視線を投げると、サッと身を翻し、オーサーの後を追った。
ジェビンも唇を噛んで追いかけるしか術がなかった。
殺風景なジェビンのアパートに辿りつくと、オーサーはまずバスルームに直行した。
暖房代わりに、沸かせるだけの湯を沸かし、バスルームを白く温かい蒸気で満たしてやってから、自身のジーンズの裾と袖を巻くってジェビンを呼んだ。
「今からニャンコちゃんを風呂に入れるから、お宅はどっか別の部屋に行ってて」
「何でお前がそんなこと!」
「いいかから、俺の言うとおりにして。確かめたいことがあるんだ。それと、その灰色の怖い猫も一緒に連れてってよ。仕事の邪魔だから」
オーサーは金色の目を光らせるオンマに肩を竦めて見せた。
「ほらほら、分かったら出た出た」
シッシッと手を振って、脱衣所からオロオロするばかりの一人と一匹を追い出す。
ただ一人残されたナビは、この初めて会う奇妙な男に戸惑い、不安でいっぱいな顔をして男を見上げている。
「さ、邪魔者もいなくなったことだし。服、脱いでもらおうか」
脱衣所の壁に背をつけるナビをジリジリと追い詰めるように、オーサーが迫ってくる。
そう言われても「はい、そうですか」と脱げるワケも無い。
脱衣所でただ目を白黒させるだけのナビの腕を引っ張って立たせると、オーサーは無理やり頭からナビの衣服を剥ぎ取った。
いきなり裸に剥かれて晒された空気の冷たさに、ナビが声にならない悲鳴を上げる。
「……やっぱりね」
呟いたオーサーの言葉に、ナビは思わず身を竦ませた。
次に彼の口から出てくる言葉が、心底怖くて堪らなかった。
しかし、オーサーはナビの肩を掴んでクルリと風呂場の方へ向けて反転させると、ナビの背中をペチリと叩いて、そのまま風呂場へと促した。
「ほら、入った入った」
オーサーの手が裸の背に触れた途端、ナビの身体がビクッと反応したが、オーサーは気付かぬフリで、自分は浴槽のヘリに腰をかけた。
熱めのシャワーを勢いよく出して、足元に座るナビの髪を濡らす。ナビは水が入らないように慌てて目をつぶり、耳を押さえた。
見下ろすナビの背中には、青黒く変色した痣と、細い鞭のようなもので叩かれた痛々しいミミズ腫れの痕が無数に散らばり、オーサーの眉をしかめさせた。
だがすぐに立ち込めたシャワーの暖かい煙が、狭い風呂場の中で二人の間を遮る煙のカーテンになり、ナビの無残な傷跡を隠してくれた。