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言葉の応酬にもひと段落ついて二人が黙り込むと、暗闇の中は、時が止まったように静かだった。
背中に密着したミンホの鼓動の音と、耳の奥に響く自分の鼓動だけが唯一の音源で、それゆえに、明らかに通常とは異なる速さを刻む自身の心臓の音が、一番伝わって欲しくない相手に伝わってしまいそうで恨めしかった。
こっそり腕の中で唇を噛むナビを知ってか知らずか、ミンホが再び口を開いた。
「……ワケを、話してくれませんか?」
「え?」
突然首筋にミンホの息遣いが当たって、ナビは飛び上がりそうになった。
「だから、誘導に従って逃げなかったワケです。あなたのお兄さんと、米兵の逃亡犯にどういう関係が?」
黙りこんでしまうナビに、ミンホは深い溜息をついてから、わざと固い声で畳み掛ける。
「警官として聞いてるんです。僕には、一般市民を守る義務があります。一人で凶悪犯を閉じ込めた建物のエレベーターに忍び込んだりして、扉が開いた時、いきなり犯人と鉢合わせなんてことになってたら、どうするつもりだったんですか? こんな無茶な真似する人は、厳重注意じゃ済まないですよ」
さあ、どうする?――と言わんばかりに、ミンホは腕の中のナビを軽く揺すってやる。ナビの唸り声が暫らく続いた後、ようやくその重い口が開かれた。
「……兄貴は、KATSUSAに配属されてたことがあるんだ」
言われて、ミンホは改めてナビのちっとも似ていない、美しい兄の姿を思い浮かべていた。グレーがかった不思議な色味の瞳と、プラチナブロンドに染めた髪が恐ろしいほど良く似合う、人形のような男の姿を。
「……そこで、酷い目に合わされた。僕は直接兄貴の口から聞いたわけじゃないけど、でも分かる。口に出せないくらい、酷い目だ」
いつもの、どこかに幼さを残したナビの話し方とは異なり、奇妙に確信的で強張ったナビの声に違和感を感じながら、ミンホは静かに話の続きを待った。
「だから、仇を討ってあげたかった。兄貴をそんな目に合わせた奴も、まだ逃げ続けてる。今、この建物の中にいる奴が同じ奴かなんて分からないけど、ジッとしていられなかったんだ。気が付いたら、咄嗟にエレベーターに飛び乗ってた」
「無茶だ!」
黙って聞いていられず、ミンホは思わず声を張り上げた。
「……分かってるよ。だから、悪かったって謝ってるだろ」
「いつ謝りましたか? どさくさ紛れに謝ったことにしようとしてるでしょ」
「謝ったよ! 僕、もう謝らないからね。一度しか謝らないからね」
「何ですか、それ。あなた、本当に小学生並みですね」
「何をぉ!」
ミンホの腕の中に拘束されつつも、ジタバタともがき暴れようとするナビを余裕で押さえつけながら、ミンホはふと動きを止めた。
「あれ? あなた、ひょっとして熱がありますか?」
「え?」
つられて動きを止めたナビの額にミンホは手を滑らせる。
「やっぱり。子どもは体温が高いって言うけど、それにしたって熱いですよ」
「誰が子どもだよ!」
振り返り様に、ミンホに向かって振り上げられたナビの小さな拳をやすやすと掴んだその時、非常灯の明かりが着いた。
「あっ!」
二人ほぼ同時に、声を上げる。
その途端、思っていたよりも近くにあったミンホの端整な顔に、ナビは気まずくなってそそくさと目を逸らした。
片手の拳は、ミンホの手のひらの中に納まったままだ。
「……電気ついたから、もう離せよ」
「嫌です」
顔を背けたまま、掴まれた手首を引こうとするナビを、ミンホは許さなかった。
「何でっ?!」
「都合良く、無かったことにするつもりですか? 僕が前に言ったこと、忘れたなんて言わせませんよ」
「何だよ、それっ……」
しまった――そう思った時には既に遅く、思わず振り返ったナビは、ミンホの強い真剣な眼差しに射抜かれて身動きが取れなくなっていた。
(僕だって、無視されたら心が痛いです)
(好きな人が、いつもどこか別のところを見てたら、傷つきますっ!)
好きな人――あの日、『ペニーレイン』の前で、ミンホは確かにそう言った。
それは愛の告白というよりも、いつもの喧嘩の延長で、勢いで出てしまったと言った方が正しい、言った当の本人の方が、戸惑って立ち尽くすような拙いものだった。だがそれ故に、真っ直ぐなミンホの気持ちが、痛いほどに伝わって来た。
「……僕、男だよ」
「見れば分かります」
「お前……そういう趣味なの?」
「いいえ。少なくとも今まで、男に惚れたことはないですね」
「じゃあ、からかってるんだ! 僕のこと、バカにして、うろたえるの見て、からかってるんだろっ! いつもの意地悪の、続きだろ?」
必死に言い募ろうとするナビに対して、ミンホの視線は動かない。怖いくらいに冷静だった。
「そうした方がいいですか? あなたは、僕の悪ふざけにしたいんだ。どうして? 何をそんなに怖がってるんですか」
「怖がってなんかないっ!」
身を捩ってミンホから逃れようとするナビの肩を捕まえたまま、ミンホはふと、ナビのハーフパンツから覗いた剥き出しのふくろはぎに、赤く細い線が伝わっているのを見た。
「あなた、どこか怪我したんですか?」
ミンホは慌ててナビの拘束を解いて、赤い筋が伝う足首をグイッと握って引き寄せた。途端に、バランスを崩したナビは背中を床に打ち付けて転がると、仰向けにミンホを見上げる格好になった。
「いきなり何するんだよっ! どこも怪我なんか……」
そう言いかけた時、視界の先に、自身のふとももから足首にかけて、ツーッと細い糸のような血が伝っていくのを見た。
ツキン――
その途端、先ほどまですっかり忘れていた下腹部の鈍い痛みが、再び重くナビに圧し掛かって来た。