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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
110/219

4-18


***



 東大門トンデモンを代表する総合デパート『デュータ』の威光がナビの前にそびえ立っている。

 眠らないショッピング街である東大門の中にあっても、そのモダンな佇まいから、外国人観光客にも一際人気の『デュータ』は、今やソウルの新名所と言っても過言ではない。

 若い学生やカップルの他、常にどんな時でも、日系、中国系、白人、黒人……様々な人種が行き交い、多様な言語が飛び交っている。

 ジェビンの着替えになりそうなルームウエアを調達した後、屋台でも覗いて、未だ夕食にありついていない自分と店で待っているオーサーのために、夜食も買って帰ろう――そんなことを考えながら、ナビは深夜だというのに煌々と電飾を灯す『デュータ』の中へ入っていった。

 その時、ツキン――と、下腹部に鈍い痛みが走った。

 空腹が過ぎたせいか――ナビは一瞬立ち止まって、痛みを示す箇所に手をやった。だが、漫然とした痛みは特定に部位を刺すわけではなかった。

 ナビは首を傾げながらも、気のせいだろうと構わず店の中を進んでいく。

『デュータ』の中のフロア案内図を見て、ルームウエアの置いてありそうな店舗に当たりをつけて、エスカレーターに乗り込んだ。

 その時だった。

 ブーッブーッブーッ――

 けたたましいブザー音が鳴り響き、深夜にも関らず店内を埋め尽くしていた客たちからは、騒然とした声があがった。

 そんな中、列を成した警官が1階フロアの中に雪崩れ込んできた。


「今からこの建物は封鎖します! 早く階下へ避難をっ!」


 駆け込んできた制服の警官の一人が、ナビをはじめエスカレーターの上から何事かと1階を見下ろしていた客たちに向かって叫んだ。


「避難路はこちらですっ! さあ、早くっ!」


 ぐずぐずと顔を見合わせるナビたちに痺れを切らせた警官が、拡声器でさらに声を張り上げる。


「やだ! 火事なの?」

「いや、違う。火事じゃない。ニュースになってただろ、米兵の強姦魔が脱走してるって」

「まさか、このデパートに?」

「そう言えば、東大門トンデモンで目撃情報がって、ネットで……」


 他人同士のざわめきは次第に一つの意味を成した会話となり、そこにいる一同を揃って不安に陥れるのに長い時間はかからなかった。


「銃を持ってるって言ってたわ」

「人質を取って立てこもったら?」

「早く逃げろっ!」


 ようやく事態を掌握しはじめた客たちは、今度は我先にとナビの肩を突き飛ばして、エスカレーターを降り始めた。


「落ち着いてください! 我々の指示に従ってくださいっ!」


 半場パニックに陥った客たちを叱責しながら、警官隊が誘導を始める。

 押しやられてエスカレーターの手摺りにへばりついていたナビも、ようやく我に返って、避難の列に加わろうと階段を一歩踏み出した。

 だが、ほんの一瞬、足元がグラつくのと同時に、先ほどまで覗き込んでいた、寝汗に塗れたジェビンの青白くも美しい寝顔が脳裏に浮かんだ。

 苦悶に満ちたその表情は、見ているだけで胸が締め付けられそうだった。

 ナビが愛して止まない兄貴ヒョンを、ただ一人、この世で寄り添って生きていくことのできるかけがえのない兄弟を、これほどまでに苦しめる存在を、このまま野放しにすることなど出来るだろうか。

 ジェビンの恐怖と不安の根源は、何としても取り除いてやらなければならない。

 それが出来るのは、彼の“弟”である自分を置いて他にはいない。


「直に封鎖しますっ! 急いで外へ出てください!」


 警官の声が一際高くなる。

 ナビは唇を噛み締めると、警官の目を盗んで、思い切って人波の間から一人離脱した。

更衣室のカーテンの間に潜り込んで、つい先ほどまで自分が所属していた人波のざわめきが遠ざかっていくのを、息を殺して見送る。

 しばらくすると、重いシャッターの閉まる音が響き渡った。

 さすがのナビも、思わずビクッと肩を震わせる。

 今は警官たちの足音も遠く、咄嗟に取ってしまった自分の判断が正しかったのか、一人になると急に不安が込み上げて来た。

 もし今ここで、あの凶悪な米兵と出くわしたら……。

 更衣室のカーテンをギュッと握り、恐怖で僅かに震える指先を武者震いだと言い聞かせる。


 もう、後には引けなかった――。



***



 重厚な音を立てて閉まるシャッターの間を、長身の男二人は身を屈めて、滑り込むようにして中に入った。


「ビルは全て封鎖済みです」

「中にいた買い物客の避難終わりました」


 続けざまの報告に敬礼で答えて、チョルスとミンホは鋭く当たりを観察する。


「奴は?」

「7階のフードコートに立て篭もっている模様です。男の店員を一人、人質に取っています」


 市民を排斥したフロアには、今では屈強な警察官しかいない。


「確か上は、屋上庭園だったな?」


 チョルスは中にいた警官から渡されたビルの図面を確認すると、警官は頷いた。


「今、応援を呼んでます。ヘリが止まるスペースには充分だから。上からも送り込んで、挟み撃ちにしてやるんです」


 その言葉を受けるように、隣にいた警官が肩に下げる無線機が鳴った。


「――了解。応援、5分後に到着します!」

「よしっ! 行くぞ、ミンホ」


 チョルスは待ってましたとばかりに、床を蹴って駆け出す。

 止まったエスカレーターを、二段飛びで駆け上がっていく兄貴分の背中をミンホが追いかけようとしたその時、彼の視界の端を、何かが素早く横切った。

 一瞬立ち止まり、周囲を見回す。

 このフロアには、否、もうこのビルの中には、警官と犯人と、人質に取られたという、哀れなフードコートの男の店員しかいないはずである。

 買い物客は全て避難を終えたと、つい先ほど、先着の警官から聞いたばかりである。


 まさか、逃げ遅れた者が?――


 そう思って、気配のした方へもう一度目を凝らすと、閉まりかけたエレベーターの向こうへ、青いパーカーを着込んだ小さな背中が消えようとしていた。





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