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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
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4-16



***



『――兄さん、お元気ですか? 軍の生活はどう? 退役まであと一年だね。僕は毎日カレンダーに×印を書いて、兄さんの帰りを待っています。そうだ、僕は最近、英語の勉強を始めたんだよ。近所にとても親切なアメリカ人が引っ越して来たんだ。今では週に一回呼んで、家庭教師をしてもらっています。すごいでしょ? 父さんも母さんも先生をとても気に入っています。兄さんが、帰ってきたら、皆で英語で話そうって笑ってます。僕の方が上手かったら、兄さん、どうする? では、くれぐれも身体には気をつけて。親愛なる、あなたの弟より』


 暗がりの中で、カサカサと紙の音がする。

 カーテンを閉めきりにした窓を叩く雨音とは対象的な乾ききった音だ。

長い時間、狭いデニムのポケットにしまい込み、取り出してはしまいを飽きもせず繰り返す内に、いつしか手垢で黄色く汚れた紙は、彼の手の中で水分の欠片もない、乾ききった音を立てるようになっていた。

 藍の色に滲んだペンの跡だけが唯一、かつてそこに確かに存在していた水分の痕跡を残していた。

そんな水分の化石のような文字は、筆跡者の律儀さと生真面目さを表すように、幾分丸みがかって、小さくびっしりと黄ばんだ便箋を埋め尽くしていた。

 ジェビンはもう何度目になるか分からない、大切な化石をデニムのポケットにしまい込む。


 その様子を、隣りの部屋で先に横になっていたナビは見ていた。

 胸元で身体を丸め、ナビの顎に額を擦り付けるようにして眠るオンマの背を抱きながら、ナビは目を凝らす。

 薄く開いたドアの隙間から、暗闇の中でうな垂れるジェビンの綺麗なプラチナブロンドの髪が見える。

 そこは、大概において優しいジェビンが、ナビに唯一立ち入りを禁じた、彼の『弟の部屋』だった。

 この家に来てもう三月にもなろうかと言うのに、ナビは未だに彼の弟の姿を見たことがなかった。

 今、扉の隙間から覗くのも、見慣れたジェビンの後ろ姿だけだ。いくら注意深く耳を済ませてみても、もう一人の住人の息遣いさえ聞こえてこない。





「ナビ、俺ちょっと買い物行って来るから」


 ある日、ジェビンがそう告げて家を開けた時、いつもなら部屋の隅で膝を抱え、片手でオンマと遊びながらジェビンの帰りを待つだけだったナビだったが、どういうわけかその日は、胸騒ぎにも似た好奇心を押さえることが出来なかった。

 雨の夜、まるで何かにとり憑かれたように、閉め切りにした薄暗い『弟の部屋』に籠もるジェビンと、幽霊のように姿を見せない彼の『弟』。

 まさか本物の幽霊がいるはずもないだろうが、家主の許しを得ているとは言え、一つ屋根の下に三月も一緒に暮らしながら、ただの一言も言葉を交わすどころか顔を合わせたことすらない、このもう一人の住人に、ナビは純粋に会ってみたいと思った。


 弟は病弱ですごく人見知りだから――


 ジェビンはそう言っていた。

 だったら、驚かせないようにドアの隙間からそっと様子を窺うだけでもいい。 

 自分も人見知りな性質だから、彼の弟の気持ちは良く分かるつもりだ。健康状態から考えても、あまり長居をするつもりもない。

 ただ、あの美しい天使――ジェビンの弟の姿を一目見てみたかった。

 弟もやっぱり、ジェビンに似た天使なのだろうか。

 ナビがこれまで生きてきた中で目にした、唯一の美しい者のように。

 ナビはそっと、開かずの間のドアノブに手をかけた。

 キッと一瞬軋んだ音がしたものの、ドアはあっさりとナビの手の中で回った。

 まるで共犯だと言わんばかりに、オンマが訳知り顔で痩せた背中でドアを押す。


 キー――


 そっと頼りない音を立てて、ドアが薄闇の中に向かってゆっくりと開いていく。

 フワリと舞った埃の匂いを思い切り鼻で吸い込んで、ナビは思わず着ていたシャツの袖口で喉と口を覆ってむせ返った。

 深海の底の柔らかい砂を踏んだように、一歩ナビが踏み出せば重厚な埃の層がナビの素足を押し返す。もう随分長い期間、ここに人の手が入った形跡がない。

 こんな胸の悪くなるような埃の匂いが充満する部屋で、病弱だというジェビンの弟は平気なのだろうか。こんな部屋に籠もっていては、ますます身体を害するのがオチだ。


 見れば、煤けたカーテンでピッチリと塞がれた窓の前に、大きな藍色のベッドカバーが被せられたベッドがあった。その上は、人の形に膨らんでいる。

 ナビは恐る恐る、その膨らみへと近づいていく。

 真新しい雪を踏みわけて行くように、埃の層の上にナビの小さな足跡が刻まれていく。

 ベッドのすぐ側まで寄っても、膨らみは動かない。呼吸をすればゆるやかに上下するはずのそれは、どんなに目を凝らしても微動だにしない。

 ナビは思い切って、その膨らみを覆い隠す、ベッドカバーと同色の毛布をそっと剥いでみた。

 ベッドに横たわっていたソレに、ナビは一瞬息を詰めた。

 早鐘を打ち出した心臓を、シャツの上からギュッと押さえて呼吸を整える。



 落ち着け――死体を見たわけじゃない――

 だけど、これは一体?――

 コレが、彼の『弟』?



「そこで何してる?」


 その瞬間、僅かに落ち着きを取り戻しかけていたナビの心臓は、再び、先ほどとは比較にならぬ度合いで縮み上がった。


「弟の部屋で、何してるのかって聞いてるんだよ」


 リビングの明かりを背にして立つその人影は、どん底にいたナビを助けてくれた、美しい天使のシルエットに他ならなかった。

 だがその声音は、今まで聞いた彼のどんな声よりも低く冷たく、容赦なくナビの肌を切り裂いていこうとするようだった。

 言い訳を呟こうにも、元々声が出ないのだ。

 こんなに心臓を鷲掴みされたように震え上がっている今の状況では、例え声が出せたとしても、一言も発することなど出来なかったであろうが。


「出てけ……。今すぐ弟の部屋から出て行けっ!」


 ジェビンの叫び声と同時に、ナビは埃だらけの床を蹴って逃げ出していた。

 暗闇の中で目を光らせたオンマは、ジェビンを非難するように一声甲高い声で鳴くと、そのままタッと踵を返し、ナビの後を追って出て行った。



 埃に守られた藍色のベッドの上には、着古してくたびれた学生服の上下が横たわり、その胸には、ナビと変わらぬであろう、まだあどけなさを残した少年がはにかんだ笑顔で写る写真が抱かれていた。


 色の落ちたその写真の中の少年は、くたびれた学生服を着ていた。



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