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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
107/219

4-15


***



  朝から雨が降っている。

 一日中降り注ぐ雨のせいで、夜になっても身体にまとわり付くような不快な湿度が、ペニーレインの中を満たしていた。

 いつもより重たい空気に、知らず知らずの内に気分までつられて塞ぎ込みそうになるが、『振り出した雨が、開店の合図』であるペニーレインを、閉める訳にはいかなかった。

 客足はまばらだったので、ボーイのナビは大した仕事もなく、ジェビンと一緒にカウンターの中にいた。その対面を陣取ってブランデーを舐めているのは、ご他聞に漏れず、オーサーだ。

 その時、重い空気を震わせて、ドアベルが湿った音を立てた。

 示し合わせたわけでもないのに、ジェビンとナビとオーサーの三人は、一斉に音のした方を振り返って、こんな日に現れた珍しい客に視線を向けた。

 鴨居に頭をぶつけないように少し前屈みになって入って来た男は、店内の暗い照明にも乱反射するような、見事な光沢を放つスキンヘッドに、ドアを塞いで余りある巨体で、店にいる者すべてを威圧する風情で立っていた。


「よう、久しぶりだな。ジェビン」


 しゃがれ声でそう呟くと、男は巨体を揺らしながらそのままズカズカと店内に入って来た。

 迷いのない足取りは、真っ直ぐにカウンター席を目指している。

 黒い皮ジャンの広い肩が雨で濡れて光り、ナビの前を通るとき、湿った皮の匂いが鼻をついた。

 男はジェビンの前でピタリと立ち止まると、首を斜めに傾げてジェビンを見据えた。


「どううした、その顔は? 俺を忘れちまったか? 随分水臭いじゃねぇか」


 そう言うと、男はカウンターに着いた右の手の甲を持ち上げて、ジェビンに向かって掲げるようにして見せた。男の手の甲には、大きく盛りあがった、醜いケロイドの傷が付いていた。


「『まともなネタ』は、今も探し続けてるのか?」


 ジェビンのコメカミが、知らずにピクリと反応する。男はその様子を眺めて、厭らしく口元を歪めた。


「答えろよ。まだ、その身体で払ってくれる気が?」


 その瞬間、ジェビンが手にしていたグラスが、彼の手の中でバリンッと音を立てて割れた。


兄貴ヒョンッ!!」


 驚いたナビが叫ぶその先で、ジェビンの手は割れたガラスの破片で、既に血だらけになっていた。


「思い出してくれたみたいで嬉しいよ。ところで、今サツが追ってる事件、知ってるか?」


 わざとらしく首を竦めた男が、口元を更に歪めて続ける。


「元KATUSAの退役軍人が襲われて、犯人の米兵は逃走中だとよ。どっかで聞いた話だよなぁ?」


 ズクンッ――

 脈打つ熱を持って、ジェビンの左足の傷が疼く。


「お前のいつかの『お相手』と、同じ奴なんじゃないか?」


 その瞬間、カウンターに陳列した酒のビンを全てなぎ倒すようにして、ジェビンが崩れ落ちた。


兄貴ヒョン!」


 慌てて駆け寄るナビの横で、先ほどからカウンター席に座ったまま傍観していたオーサーが、静かに腰を上げた。


「わざわざそれを言うために、この店を探して来たの? よっぽど、ジェビンにご執心なんだね」

 間延びした口調に、好戦モードだった腰を折られて、男はカウンターの隅を振り返った。

「何だ、お前は?」

「でも、お生憎。お宅は、ジェビンのタイプじゃないと思うよ」

「何だと?!」


 飛び掛ろうとする男に、オーサーは組んだ両腕を解いて、袖口に隠していたシリンダーを二本の指の間に挟み、針を真っ直ぐに男の方に向けた。


「あ、申し送れました。俺、天才お医者さんのオーサー・リーです。でも、いわゆるマッドサイエンティストってやつでね。この趣味のせいで、お日様の下でお仕事できなくなっちゃった」


 針先は怪しく光りながら、まっすぐに男の首元を狙っている。


「あんた、お顔はマズイけど、いい身体してるよねぇ。最高の実験体だよ。そそるなぁ」


 舌なめずりをしながら、ジリジリと近づいてくるオーサーに、男は一歩二歩と後退を始めた。


「そ……それ以上、近づくな」


 ドンッと、後退を続けた男の肩が店の壁にぶつかった。鼻先が触れるくらいに近づいたオーサーが針を振り上げると、男は思わず顔に似合わぬ甲高い悲鳴を上げて屈み込んだ。ケロイドの傷が残る右手で出口のドアを探ると、オーサーを強い力で押しのけて、そのまま転がるように雨が降り続く店の外へと逃げ出していった。


「……あ……あいつが……あの男が……」

「しっかりして、兄貴ヒョン


 うわ言を呟くジェビンの側で、半べそをかきながら縋りつくナビの肩に、男を追い返して戻って来たオーサーが優しく手を置いた。

 オーサーは無言のままナビを見つめると、ナビはその意図を察して静かに膝を滑らせて、オーサーにジェビンに一番近い位置を譲った。


「……あいつが……あいつが……」

「落ち着いて、ジェビン。第一級犯罪で姿をくらませてる奴が、もう一度軍に潜入できるわけがない」


 薄く閉じられた瞼の上には、青く浮かび上がった静脈がピクリピクリと震えている。


「あの男なら、名前も顔も、戸籍だって変えるのくらいわけないだろう」

「米軍もバカじゃない。軍の身元確認はそんなに甘くないよ」


 その時、血走った目を見開いて、ジェビンが身体を起こした。


「信じられるかっ! だってあいつは……俺が退役する一年も前からナビをっ!」


 ジェビンの口から出た、ナビ――の一言に、オーサーの側に控えていたナビがビクッと肩を震わせる。

 怯えたような顔で、オーサーの陰に隠れてジェビンを見守るナビの姿を見つけると、ジェビンは腕を伸ばして、強くナビの手首を掴んだ。


「ナビ……逃げろ」


 切迫感に満ちたジェビンの目は、正気を失っていることが一目で分かった。


「逃げてくれ、ナビ」 


 ナビの手首を掴む手に力が加わる。ナビの華奢な骨が悲鳴を上げ、ナビの額には汗が噴き出した。


「逃げろっ! 逃げてくれ、ナビヤッ!」

「ちょっと、失礼」


 更に肩を掴もうと腰を浮かせかけたジェビンとナビの身体の間に割って入って、オーサーは先ほど男に向けていた針先を、ジェビンの首筋に突き立てた。

 その途端、ジェビンの力がクタリと抜けて、そのままオーサーの肩にもたれ掛るように意識を失った。

 ジェビンを肩に乗せたまま、オーサーは手を伸ばし、そっとナビの頭を優しく撫でる。


「気にしないで。ジェビンはちょっと、混乱してるんだ」


 ナビは耐え切れず、オーサーの手の感触に甘えて、そっと涙を零した。




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