4-14
ナビがジェビンのアパートに住み着くようになってからすぐに、凍えるような冬が訪れた。
電気も暖房器具も入っていない粗末なアパートは、剥き出しになったコンクリートの床から這い上がる冷気が肌に染みた。
凍えるナビとオンマのために、ジェビンは小さなストーブを一台買ってやった。しかし当のジェビン自身は、毛布にくるまり暖を取るナビとオンマの足元に置かれたそのストーブに、自分からあたりに行くことはなかった。
冷たいコンクリートの部屋の中、不器用に差し出されるジェビンの優しさに、ナビの凍えて怯えきった心は徐々に溶かされていった。
だが、やがてナビはジェビン自身が抱える『痛み』の本質に、触れるようになる。
雨が降り出すと、ジェビンは何時間でも粗末なキッチンに籠もりきりになった。雨音にそっくりな脂の音を立てて、フライパンの中で狂乱の舞台を繰り広げる。
血管の浮いた逞しい腕に掻き回されるその鉄板の中身は、チャプチェであったり、パスタであったり、時にはチャーハンであったり、その内容は様々だったが、ただの一度もナビやオンマ、ジェビン自身の口に入る事はなかった。
雨脚が遠のくのと同時に火が止められると、それらは湯気をたてたまま、フライパンごと ダストボックスの中に無造作に突っ込まれて終わりだった。
後には、汗だくになったジェビンが一人、冷たいキッチンの床の上で膝を抱えているだけだった。
ある雨の日、いつものようにキッチンに籠もり、何時間もかけて作り上げた料理を無造作に捨てようとしたジェビンの腕を、ナビは思い切って掴んだ。
足元には、当然のようについて来たオンマの姿もある。
別に、空腹を訴えたかった訳ではない。
ただ、そうせずにはいられなかった。
大量の料理と共に、手元に残った『正気』を少しずつ手放していくようなジェビンを見ているのが辛かった。
ナビが小さく腕を引く力につられて、ジェビンは虚ろな目でゆっくりと振り返った。
「……ああ、そうか」
呆けたような声が、ナビの頭上から降って来る。
ナビが顔を上げると、その頬を両手で挟みこんで、ジェビンはポツリと呟いた。
「……お前がいるから、もう捨てなくていいんだ」
その日初めて、ジェビンの料理はダストボックスではなく、ナビたちの口に運ばれた。
そして、もう一つ――
この部屋に来たその日から、ナビが異様な空気を感じ取っていたものがある。
壁に貼られた一枚の写真。
顔のところを執拗に狙い、ズタズタに切り刻まれたその写真は、装飾品どころか、ソファーと小さなストーブ、ナビとオンマが眠るマットレス以外に家具らしい家具もない部屋の中にあって、異様な存在感を放っていた。
普段はそこにそんなものが存在していないかのように振舞うジェビンだったが、雨が降ると、少し不自由な左足を引きずりながら、ジッとその写真の前に立ち尽くし、ポケットから取り出したナイフで、何かに取り付かれたように傷をつけることに熱中していた。
普段自分たちに向ける優しい目とは明らかに違う、『狂気』が垣間見えるその瞳に、ナビは声をかけることもできず、ただジェビンの気が済むまで壁に傷をつけるのを見ているしかなかった。
ある日、ガリッと壁を引っかく音で目を覚ましたナビは、窓の側のいつもの壁に向かって立つジェビンの後姿を捉えた。
夜の間にいつの間にか降り出した雨が、静かに窓を叩いていた。
ガリッ……ガリッ……
暗闇でよく見えないが、壁に額をつけたジェビンの手元から、その音は聞こえてきた。
「……?」
ナビは毛布から抜け出して、そっとジェビンの背後から手元を覗き込んだ。
「ッ!!」
その時、ナビは思わず口を押さえて、声にならない悲鳴をあげた。
写真を深く抉るジェビンの爪先からは血が流れ、壁をべったりと汚していた。
「ンンッ?! ンーッ!ンーッ!!」
小さな手でジェビンの背中をポカポカ殴りながら叫ぶ。ジェビンはされるがままになりながら、どこか虚ろな目で呟いた。
「ジッと……してられないんだ」
ジェビンはナビを振り返り、静かに床に座り込む。ナビもその後を追うように、冷たい床に腰を下ろした。
「……雨が降ると……この傷が……疼いてさ」
ジーンズに隠れた左足の傷跡を、ナビも知っている。白くキメ細やかな美しい肌を蹂躙した、無残な銃弾の跡が残っている。冷たい鉛弾は、今もジェビンの足に埋まったままだ。
「……殺したくて、どうしようもなくなる」
乾いた笑いを零してうな垂れるジェビンの横顔を、外を通る車のライトが青く照らし出す。
色素の薄い髪がサラリと頬に流れる様子を、ナビは息を詰めて見守る。
こんな時ですら尚、この男は凛として美しかった。
『……僕は、逆だよ』
ナビは心の中でそっと呟く。
『雨は、好き』
そのまま窓の外に視線を移す。
『……雨の時は、優しくなるから』
物言わぬナビの心の声を感じとって、ジェビンが顔を上げると、妙に大人びた表情で微笑むナビと目があった。
それだけで、何となく分かってしまった。
二人の間に共通して流れるもの。
ナビから声を奪い、ジェビンの左足を蹂躙した、どんなに目を瞑り耳を塞いでも、忘れられない『雨の記憶』。
二人が持つ、どうしようもない『痛み』の記憶だった。
だが皮肉にも、そのことが何よりもナビの心を満たし、安堵させていた。
同じ傷を持つ者同志の体温が心地良かった。
時折出かけては、血の匂いをさせたジャケットを羽織って帰り、温かいご飯を作ってくれる天使――
行き場の無い野良猫が、ようやく辿り着いた居場所だった。