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「笑っちまう……お前は浮気を目撃された主婦かっての」
キャンピングカーの中、店から上がってくるジェビンを待ちくたびれて、そのまま彼のベッドで眠ってしまったナビの鼻を摘みながら、ジェビンは苦い笑いを零す。
ミンホと二人、雨の中で立ちすくんでいたナビに声をかけたあの瞬間の、驚きと怯えと戸惑い、そして罪悪感の入り混じったナビの表情を思い出すと、ジェビンは可笑しさと同時に、チクリと胸の奥を刺す、どうしようもない切なさを感じていた。
ミンホと別れた後も、ナビはソワソワと落ち着かない様子で、変に気を回して配膳やらジェビンの手伝いやらに精を出しては、却って収集の付かない事態を招いたため、見かねたジェビンが先に店を上がらせたのだった。
「なぁに? とうとう、間男出現?」
兄弟二人だけの静かな空間に、妙に間延びした、人を喰うようないつものオーサーの声が割り込んでくる。
「勝手に入って来るなよ。店の奥の居住空間までフリーパスにした覚えはないぞ」
「今更、水臭いこと言わないでよぉ。知らない仲じゃないでしょ」
そう言って、ズカズカとナビが寝ているベッドまで寄って来る。
「患者さんの様子が気になって、率先して往診に来てあげてるのよ。追加料金も取らないんだから、感謝して欲しいくらいだね」
「ナビの世話を焼くのは、半分はお前の趣味だろが」
悪態をつくジェビンの腕をやんわりと脇にどかせながら、オーサーは寝ているナビの脈を取る。
「うん、大丈夫だね。顔色も戻ってるし、脈も正常だ。何より、薬無しで眠れてる」
「本当か?」
「ああ、見ての通り」
そう言って、オーサーは肩を竦める。
「むしろ、処方してやらなきゃいけないのは、お宅の方じゃない? 大切な弟を取られたお兄様としては、平静な気持ちで眠れないでしょ?」
「まだ取られた訳じゃない」
フイッと顔を背けるジェビンを追いかけて、オーサーは面白そうに顔を近づける。
「あの、若いオマワリさん、本気なんじゃないの? この前、店に来てた時そう思った」
「バカ言うな」
「いいね! 戦う気? 俺も参戦しようかな」
目の前でヒュッと不謹慎な口笛を鳴らしたオーサーを睨みつけながら、ジェビンは苦々しい口調で言った。
「ナビに本気だと? あいつは、ナビのこと何も知らないだろ」
「じゃあ、俺たちは知ってるの? “ナビ”になる前のこの子のこと、知ってるって言える?」
わずかな距離にあるオーサーの目に、いつものふざけた色は消えていた。
「――“猫”だよ。路地裏で俺が拾って、人間にした」
「……ジェビン」
目を背け、小さな寝息に合わせて規則正しく上下するナビの胸元を見つめるジェビンの横顔は、鮮やかな金色の髪に覆われて、オーサーから見えなくなる。
「過去を無かったものにしようと思っている内は、過去に囚われているのと一緒だよ」
静かに呟かれたオーサーの言葉に、ジェビンは沈黙で答えた。
***
「何だよ! お前にもエサやろうとしてるのに、そんなに威嚇するなよっ!」
少年と一匹の灰色猫――二人のために盆に載せた食事を運んできた天使のジーンズの足を引っ掻きながら、猫は少年を庇うように、天使の前に立ち塞がる。
「お前の子猫が死んだのは、俺のせいじゃないぞ」
蹴り飛ばしてやりたい衝動を抑えて、天使は盆を持った不自由な体勢のまま、ぎこちない足捌きで猫を脇へ避けようとする。
見かねて手を伸ばし、灰色猫の首根っこを掴むと、少年は痩せたその身体を自分の膝の上に抱え上げた。
「全く……まるで、ナビの母親だな」
天使は溜息をつくと、ようやく盆を床に置いて、引っ掻かれたせいでボロボロになったジーンズの足を組んで胡坐をかいた。
ナビ――
(名前が無いなら、俺がつけてもいい?)
そう言った天使が与えてくれたのは、本当に猫によく付けられる名前だった。
最初は違和感があって仕方なかったが、やれ食事だ、やれ風呂だ、という度に、「ナビー、ナビヤー」と愛おしそうに呼んでくれる天使――ジェビンの声を好きになった。
その内、それが自分の名前であることにも、喜びを感じるようになっていた。
「部屋は好きに使っていいよ。弟がいる奥の部屋以外はね……でも、気にするな。部屋から出て来ないから」
そう言うジェビンはいつも、リビングの隅に置かれた、スプリングが所々はみ出したボロボロのソファーの上で、身を投げ出すように眠っていた。