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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
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4-12

「何だ、お前らも来てたのか?」


 店の中央に立ちすくむ長身とチョルスとミンホの姿をすぐに認めて、二人の警官が寄ってくる。二人の内一人は、チョルスの同期らしく、ミンホも言葉を交わす二人の姿を何度か署内で見かけたことがあった。だがその度に、良くも悪くも、自分の感情に嘘のつけない分かり易すぎるチョルスの表情から読み取るに、あまり虫の好かない相手なのだろうと、ミンホは勝手に解釈していた。


「俺らは先に基地に行って来たぜ」

「逃亡中の犯人の情報は?」

「リチャード・スミス。43歳。笑っちまう、衛生兵だとよ。レイプしといて看護してりゃ、世話ないな」


 不謹慎に鼻で笑う彼に、チョルスは無言で鋭い一瞥をくれる。


「だけど、お前も聞いてるだろ? コトは未遂だったんだ。不幸中の幸いだな」

「何だと?」


 チョルスの眉が吊りあがる。ミンホが「あっ」と思った時には、既にチョルスは同期の男の襟首を締め上げていた。


「お前はアレをみても、不幸中の幸いだなんて言えるのか?」


 店の隅でまだガチガチと歯を鳴らす青年の方向へ突き出すように、チョルスは男の首を引っ張る。


「何カッカしてるんだよ。米軍の変態がしでかした事件は、今に始まったことじゃないだろう。命と貞操、両方守れ……」

「黙れっ!」


 チョルスの怒号が店中に響き渡り、青年の手当てに当たっていた救護班までもが、驚いて振り返った。


「冷静になれよ。お前が、この手の事件に特別な思い入れがあるのは分かるけど」


 熱くなるチョルスとは裏腹に、男は酷薄そうな細い目を更に冷たく細めて、口の端だけに奇妙な笑みを作って言った。


「まだ、そんなに悔しいのか? あの米兵を未だに逮捕できないこと」

「……やめろ」

「それとも、特別な思い入れがあるのは、被害者の方に……か?」

「テシク、いい加減に……」

「アレに比べたら、不幸中の幸いと言って何が悪い? あの時は、本人だけじゃない、家族まで……」

「オム・テシクッ!」


 チョルスは罵声の代わりに同期の男の名を叫び、それと同時に固い拳を彼の顔面にめり込ませた。

 盛大な鼻血を吹きながら、男がガラスの破片だらけの床に倒れこむ。


「チャン警査っ!」」


 男の連れであったもう一人の警官が、鼻血を吹いたまま床で悶絶している相方に駆け寄りながら、ミンホたちに非難の目を向ける。


「救護班っ!」


 怒ったように叫びながら、チョルスはたった今自らが殴り倒した男のために、店の隅ですっかり縮こまっていた救護班を呼ぶ。


「行くぞ、ミンホ」


 チョルスは振り向きもせずに、さっさと自分だけ店の外へ向かう。


「あの、すみません。失礼します」


 ミンホは二人に頭を下げて、慌ててチョルスの後を追う。


「待ってください、チョルスヒョン」


 テープを潜り抜け、闇雲に歩いて行こうとするチョルスにようやく追いつき、ミンホはその腕を掴む。


「どうしていきなりあんなことを? 後でどんな問題になるか」

「知るか」

「訳を聞かせてください。さっきの、あの人の話は一体何ですか? チョルスヒョンがここまで怒るなんて……」

「ミンホ」


 チョルスが急に立ち止まって振り返ったため、ミンホは思わず前につんのめりそうになり、至近距離でチョルスの鋭い眼光と対峙する羽目になった。


「……お前も、黙れ」


 短く低く呟かれたその声は、『狂犬』とあだ名されるほどの鉄火な性質でありながら、基本的には単純で楽天家な兄貴分の声とは俄かには信じられないような、深い怒りと絶望に満ちた声だった。

 ミンホはそれ以上追及することが憚られ、再び背を向けたチョルスに無言で従った。



***



 手を引かれて訪れた天使の部屋は、殺風景でとても寒かった。電気も暖房も通っていない部屋で、男は自分のために手に提げていたコンビニの袋の中のミルクを鍋に移して温めてくれた。


「飲めよ、猫」


 そう言って、カップに移した熱いミルクを手渡してくれる。

 膝の上の灰色猫が、自分が呼ばれたのかと顔を上げる。


「何だ、お前も欲しいのか?」


 男はそう言って笑うと、平らな皿に灰色猫の分のミルクを入れて床に置いてくれた。

猫は路地裏から、さも当然という顔をして二人の後について来て、まんまと天使の部屋に上がり込んでいた。


「ん」


 男は椅子の背を前にして座ると、カップを受け取ったまま固まる自分を優しく促してくれた。遠慮がちに唇を近づけ、フーフー言いながらミルクを飲む様子を、彼は黙って見つめている。

 隣の灰色猫は我が物顔でミルクをピチャピチャと舐めているが、何となく飲みづらくて、カップの影からチラチラと男の様子を覗う。


「……お前さ、行くところあるの?」


 カップを持ったままの手が、意図せず小さく震えた。

 行き場所なんて、どこにもなかった。


「俺んちに住むか? 猫」


 何でもないことのようにサラリとそう呟いた男の言葉に、思わず手の中のミルクのカップを取り落としそうになる。


「気が済むまで居て、用が無くなったら出てけばいいさ。猫は元々、そういうもんだろ?」


 慌てぶりが可笑しかったのか、男は形の良い唇に指を当てながらクスクスと笑う。

 カップを床に置き、喉を押さえて口を開いた時、それまで笑い転げていた男の目が、何かに気づいたように見開かれた。


「……お前、もしかして声……」


 行き先のない自分に思いもよらなかった宿を提供してくれた天使に感謝の言葉を述べようと口を開いてみたが、身体は簡単に言うことを聞いてくれなかった。

 やっぱり、本当に猫だったんだ――。


「お前、名前は?」


 男はそう言って、静かにその手のひらを差し出した。

 反対の手で子猫の指を掴み、その上に名前を書けと促す。


 書けないよ。

 だって、猫だもん。

 名前なんて、最初からないんだ。


 そんな思いを込めて男を見上げると、彼は困ったように肩を竦めた。


「俺はジェビンだよ。ユン・ジェビンだ」


 ジェビンと名乗った男は、椅子の上から子猫に向かって手を伸ばしてきた。


「名前が無いなら、俺がつけてもいい?」


 美しい顔に似合わない悪戯っ子のような笑みを浮かべ、大きな手が子猫のもつれきった髪をグシャグシャに掻き回す。

 それが、天使と子猫の――『ペニーレイン』のユン兄弟になる以前の――ジェビンとナビとの出会いだった。



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