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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第4章【路地裏の猫】
103/219

4-11

***



「おお、来たか」


 雨の中、自家用車で駆けつけたミンホの姿を真っ先に捕らえると、大勢の警官に囲まれ難しい顔で俯いていたチョルスは、眉間に皺を寄せたまま彼を手招きし、騒然とした警官の輪の中に招き入れた。

 竜山米軍基地に隣接する梨泰院イテウォン地区は、いつ来てもここが韓国ソウルだという事実を忘れそうになる。アメリカ人を初めとする多国籍な人種が行き交う街並みは、昔から自由で洒落ているには違いないが、自国であって自国でない、どこか言い知れぬ不安がいつも付きまとい、ミンホはあまり好きになれない場所であった。


「非番の日に悪いな」


 ちっとも悪そうには見えない顔で、チョルスはミンホの肩に手を置く。


「民間人を襲った米兵が逃げ出したなんて聞いたら、トイレの途中でも駆けつけなくちゃならないでしょう」


 ミンホらしい言い回しに、チョルスは眉間に皺を寄せたまま口の端だけで笑った。


「捕まえたって、すぐにSOFA(米韓駐屯軍地位協定)に邪魔されて、やっこさんの身側は米軍側あちらさんに渡さなきゃならないけどな」


 厭世的なチョルスの言葉に、ミンホもつられて眉間に皺が寄る。

 在韓米軍の犯罪は、韓国側に刑事裁判権があるとされながらも、容疑者の身柄は一旦米軍側に引き渡さなければならない取り決めのため、その後改めて引渡しを要請しても、実質、治外法権を許容してきたという苦い慣例がある。

 この手の犯罪が起こるたびに、国内には根の暗い反米感情が渦巻くのと同時に、無能な警察組織への手厳しい批判が集中する。


「……被害者は?」


 ミンホの問いに、チョルスは傍にいた若い警官が持っていた資料を取り上げ、読み始める。


「チョン・ユンゼ――KATUSAを退役して復学したばかりの23歳、大学生」

「KATUSA――?」


 ミンホの眉間の皺が消え、反対に大きな目が見開かれる。


「兵役中に、目をつけられたんだろうよ。可哀相に」


 チョルスは苦虫を噛み潰したような顔で付け加えた。


「変態野郎が」


 おまけに、ペッと勢いよく唾を吐き出す。警官として、いい大人として、あまり行儀がいいとは言えない兄貴分の行動を非難するのも忘れて、ミンホはチョルスの手から引っ手繰るようにして捜査資料に目を走らせた。


 KATUSAとは、'Korean Augmentationto the United States Army'の略称であり、「米陸軍配属韓国軍要員」と訳される。

 一部からは「米国ヤンキー傭兵」と非難を浴びることもあるが、主に在学中の大学生以上の学歴の者で構成されるエリート意識の高い集団であり、志願する若者は少なくない。

 だが、そのエリート意識の高さが高卒兵がほとんどの米兵との間の軋轢あつれきの遠因にもなり得る他、韓国国内の反米感情がそのままKATUSAの兵と米兵の関係に影を落とすこともある。

 有事の際の、韓国と米国の橋渡し的な役割を担うはずのKATUSAに身を置くことで、逆に反米感情を高め、米軍に対立する集団という要素も合わせ持ったKATUSAは、韓国国内においても、葛藤を抱える存在であった。


「被害者はどこに?」


 ミンホの言葉に、チョルスは黙って顎をしゃくる。

 チョルスの視線の先にあるのは、米兵向けのナイトクラブだった。


「地下にご丁寧に隠し部屋があったよ。黴臭いベッドと、おまけにヤクもたっぷりな。その道のプロには、有名な店なんだとよ。こんなの、氷山の一角だ。泣き寝入りしてる奴の方が多いだろうしな」

「……被害者に、話を聞けますか?」


 チョルスが脇に控えていた若い警官を見やる。彼は一瞬躊躇しながらも、「どうぞ」と言って、チョルスとミンホを今はテープが張り巡らされた店の入口へと案内した。

 店内は、割れたガラスの破片と、零れ出た酒が放つ、むせ返るようなアルコールの匂いに満ちていた。襲われた大学生と、異変に気付いた彼の仲間が米兵と争った跡が、説明せずとも何よりも雄弁にその事実を物語っていた


「あちらです」


 若い警官が示した先には、店の隅で救護班に囲まれ、急ごしらえのガウン代わりの白いシーツを、身体にグルリと巻きつけて小さくなる青年の姿が見えた。

 チョルスとミンホが遠慮がちに近づいていくと、顔色を失い、焦点の合っていない目で歯をガチガチと鳴らす彼の様子が、次第に明らかになって来た。


「……チョン・ユンゼ君? 少しだけ、話を……」


 言いかけたミンホの手首をチョルスが掴む。

 ミンホが振り返ると、チョルスは無言で首を左右に振った。


(今は、無理だ)


 彼の目はミンホにそう伝えていた。

 彼らは仕方なく、青年の側を離れ、倒れたテーブルがそのままになっている店の中央まで戻った。

 ここなら、話し声が青年まで聞こえる心配はない。二人とも暗黙の内に、互いの胸の内を悟って自然に動いていた。


「怪我の具合は?」


 一緒について来た若い警官に、ミンホが尋ねる。


「揉みあった時の打撲や裂傷はありますが、どれも軽いものです。問題は……」


 そう言ったまま、若い警官は口を噤んでしまった。彼が言わんとしていることは、ミンホやチョルスにとって、聞くまでもないことだったが、チョルスはことを明らかにするため、敢えて厳しく尋ねた。


「ハッキリ言え。レイプは未遂か? どっちだ?」

「……未遂です」


 単刀直入なチョルスの言葉に、若い警官は観念したように搾り出すような声で答えた。


「幸いに、とは言えねぇな。あの様子を見たら」


 チョルスは先ほどから刻まれたままの眉間の皺を、これ以上はないというほど深くして、大きな溜息を吐いた。


「知ってるか、ミンホ? 昔からレイプは拷問に使われてきたんだぜ。肉体的なダメージが傍から見て分かりづらい割りに、メンタルを傷つけることが出来るから」

「止めて下さい。考えたくもありません」


 生真面目に嫌悪感を顕わにするミンホは、許されるなら今ここで、チョルスの真似をして、アルコールとガラスの破片塗れの汚れた床に、唾を吐きかけたかった。

 その時、応援に呼ばれた、ミンホたちとは別のチームの警官二人が、店の中に入って来た。



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