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ナァ――ナァ――
夢の現の間をまどろみながら聞く、まるで赤ん坊のような泣き声。
自分が、こうして隠れるように路地裏のアスファルトの上に身を横たえてから、いったいどれ程の時が過ぎたのだろう。
夕刻の頃になれば、ソウルの秋は肌寒いを通り越して、既に手足がかじかむほどの冷え込みをみせる。
空腹の感覚など、もうとうの昔に過ぎ去っていて、骨と皮だけになってしまったような自分の枝のような手足が、霞んだ視界の隅に映るだけである。
身につけているものと言えば、肌着のように薄いTシャツと擦り切れたハーフパンツだけで、濡れたアスファルトから直に伝わる冷気は、ますます自分の脳裏から思考する力を奪っていく。
まだ辛うじて残る意識の隅で聞いていた泣き声が止むと、不意に頬にザラリとした感触を感じて薄目を開けた。
そこには自分の胸の上に乗り、金色の瞳孔を鋭く光らせた痩せた猫がいた。
冷静な思考回路を失った脳は、一瞬、自分がこの猫の餌食として狙われているのかと解釈した。
飢えて凍えて路地裏に倒れた自分の末路は、この痩せ衰えた猫の餌食となることで終わるのかと、本気で考えた。
さっきまで、赤ん坊の泣き声だと思っていた子猫の声は、きっとこの猫の子どもたちなのだろう。骨と皮ばかりのような自分の肉体でも、少しでもこの猫たちの飢えをしのぐ役に立つのなら、それもいい……。
半場諦めの境地で再び力なく瞼を閉じると、不意に口の中に生臭い何かを詰め込まれ、むせ返った。
込み上げる吐き気と共に目を開ければ、先ほどまで胸の上に乗っていた猫が、そのまま首を伸ばすようにして、自分の口の中に咥え込んだ魚を押し付けていた。腐りかけた身をつけた魚は酷い悪臭を放っていたが、吐き出そうとする自分をその猫は許さず、痩せて鋭い爪を持った前足を、口を塞ぐように押し付けている。
胃の奥からせり上がってくるような嘔吐感と、口を引っかかれる苦痛に顔を捩って抵抗するが、灰色の猫はそれを許さず、とうとう根負けしてゴクリと喉を鳴らし、その魚の身をひとかけらを、胃の奥に落としてしまった。
「……ッウ……ウゲッ……ゲホッ」
涙を流しながら咳き込んでいると、胸の上に乗っていた猫は身を翻し、再び現れたと思ったら、痩せた身体で器用に雨水を溜めた割れた茶碗を押してきた。
先ほどその爪で引っかいたせいで血の滲んだ口の周りを、こんどは慰めるようにザラザラした舌で舐め始める。
茶碗を手に取る気力も無かったため、椀の中に顔を突っ込むようにして、何日ぶりかになる泥の匂いのする雨水で、貪るように喉の渇きを潤した。
その灰色の痩せた猫は、それからも幾度となく、赤ん坊のような子猫の鳴き声の合間に現れては、どういうわけか、腐りかけた自分の食料を分け与えてくれた。その痩せた身体を押し付けられたところで、少しの暖が取れる訳でもなかったが、始めは自分を喰おうとしているのかと思ったその猫が、徐々に自分の母親のように思えてくるから不思議だった。
そうか――。
自分は人間だと思っていたのは夢の中の話で、本当は自分は路地裏で凍える子猫なのかもしれない。
金色の目で、痩せ衰えた灰色猫を母に持つ、路地裏の猫――。
だから、今までの辛い記憶も何もかも、冷たい雨の中で見た悪夢に過ぎないんだと――。
「……猫?」
だから、突然頭上のダンボールが取り払われそう尋ねられた時、思わず「ネエ(ああ、そうだよ)」と答えそうになり、声が出ないことに気が付いた。
当たり前だ。
話せるような気になっていたけど、自分は子猫なのだ。
人間に通じる言葉を発せられる訳がない。
案の上、そう呟いて伸ばされた手は鼻先で止まり、それ以上近付いてくることはなかった。
だが、こちらの出方をジッと覗いながら手を伸ばしてきた男を見上げた時、そのあまりの美しさに、呼吸すら忘れて魅入ってしまった。
もしかして、天使?――
本気でそう思った。
放射状に頭上から降り注ぐ細い雨の糸から自分を庇うように見下ろすその瞳は、今まで自分が見てきたどんな人間の目の色とも違う不思議な色をしていた。
白銀に近いプラチナブロンドの髪も、男の神秘的な顔立ちを余計に引き立てていた。
実はもう、子猫の自分は路地裏で飢えと寒さのために死んでいて、そんな自分を天国から迎えに来てくれたのではないか。
クリスチャンでもない自分にも、こうして神のご加護があったということなのではないか。
「――おいで」
美貌の天使は、魅入られたように固まったままの自分に、低い声でそう一言だけ呟いた。
少し掠れた、柔らかく深い声だった。
その声に導かれるように、固まっていた指がピクリと反応する。
その些細な動きを見逃さず、天使は自分から手を伸ばして、凍えた子猫の指先を絡め取った。恐る恐る重ねた指先は、繊細な天使の風貌に反して、ゴツゴツと骨ばって男らしかった。
ジワリと伝わる熱に導かれるように、長いこと座り込んでいたせいで皮膚がくっついてしまったのではないかとさえ思える、冷たいアスファルトの地面から、何日ぶりかで腰を上げる。
季節外れとしか言いようのない、薄手のTシャツ一枚しか着ていなかった自分に、男は腰に巻いていた皮のジャケットを解いて被せてくれた。
天使のジャケットからは、微かに血の匂いがした。