4-9
***
路地の先の行き止まりに、ひっそりと佇む黒テントが滲んでいる。
今夜は非番だったため、一人で車に乗り込みソウル中を走り回った挙句、明け方近くなってようやく見つけた。
ポケットの中の携帯電話を持ち主に返すためだった。
店の入口に顔を出したとき、ナビは相変わらずボーっとした様子でカウンターの中で皿拭きに専念していたが、ミンホの姿を見つけて酷く驚いた様だった。
そのままジェビンを振り返ったが、接客に追われていたジェビンは気付かない。ミンホは顎をしゃくって、そのままナビを店の外に誘い出した。
「どうしたの? お前……今日は一人?」
ミンホと二人きりになるのが落ち着かないのか、キョロキョロとチョルスの姿を探すナビに、ミンホはボソリと言った。
「……これ、返しに来たんです」
そう言って、手のひらの上にナビの白い携帯電話を乗せて差し出す。ナビが手に取ろうとしたところで、素早く拳を握り携帯を渡すのを阻止する。
「何だよっ? 返してくれるんじゃないの?!」
ナビがまたキャンキャンと吠え出したところで、ミンホは言った。
「メールは消しました」
「え?」
本当は消したのではなく、消えていたのだが、ミンホは彼なりの意地でそう言って突っ張った。
「何で勝手に。じゃあ、もう一回送ってよ」
「嫌です」
「はぁ?!」
「一度しか、言いたくありませんから」
ワケが分からないという顔で、ナビはミンホを見上げる。
「……痛みって、何ですか?」
「え?」
急にトーンを変えたミンホの声に、ナビがキョトンとした顔でミンホを見つめる。
「あなたと、あのオーナーが持ってる『痛み』って……」
その時、店のドアの向こうから「ナビー、どこ行ったー?」というジェビンの声が聞こえてきた。
「あ……戻らなきゃ……」
途端に身体の向きを変えようとするナビの両肩を、ミンホは強い力で掴んだ。
「痛っ!」
思わず悲鳴を上げるナビに構わず、ミンホはずっと押さえつけてきたものを吐き出すように、激しくナビの身体を揺さぶった。
「そんなものがなくちゃダメですか?! 僕だって、無視されたら心が痛いです」
「無視なんか……」
「好きな人が、いつもどこか別のところを見てたら、傷つきますっ!」
「……好きな、人?」
思いのたけをぶちまけたミンホも、ぶちまけられたナビも、ハタッと一瞬動きを止める。
ナビの両肩に食い込ませたままの指を、ミンホは慌てて解いた。
途端に赤くなる顔を背け、ミンホは大きな手で自分の口元を覆って横を向いてしまう。
ミンホは携帯電話を押し付けるようにナビに渡し、顔に集まった熱を振り払うように首を振ってから、開き直ったように低い声で呟いた。
「……そういう、ことです」
ナビが一言も返せずにいる内に、店から出てきたジェビンが二人の姿を見つけた。
「お前ら、そんなところで何やって……」
雨に濡れそぼったまま、呆けたように向かいあっている二人を、ジェビンが怪訝な顔で窺っている。
その時だった。
おかしな空気を一蹴するように、ミンホの携帯電話の電子音が鳴り響いた。
「……はい、こちらハン・ミンホ警衛」
仕事用の固い声で胸ポケットから取り出した携帯電話に出たミンホの目が、突然見開かれた。
「分かりました、すぐに向かいます」
短くそれだけ言うと、すぐに携帯の電源を切り、ポケットにしまい込む。
「今日は、これで帰ります」
短くそれだけ言うと、ミンホはクルリと背を向けて、走り去っていった。
カクカクとぎこちなく走っていくその背中を見送りながら、ナビは自分の頬にも熱が集まってくるのを感じていた。
トクトクと脈打つ鼓動に合わせて、胸の奥から熱い思いが込み上げる。
年下の、生意気な、エリート警察官。
目上の者に対する敬意が足りないと、口うるさく言えば、じゃあ敬意を払われるように少しは年上らしくしろと、減らず口を返される。
見惚れるほどの容姿と反比例した口の悪さに辟易しながらも、いつでも大切な場面ではナビを気遣い守ってくれた。
ジェビンとはまた違った、不器用な優しさは、それでもナビにきちんと届いていた。
胸の熱さがそのまま喉元まで這い上がり、うっかりすれば涙になって瞳の端から零れ落ちそうになった。
「ナビ? どうした。あいつと、何かあったのか?」
目の前で、優しい灰色の瞳が自分の様子を窺っている。
遠慮がちに伸ばされたひんやりとした指が、熱を持った頬に触れる。気付いたらずっと傍にあり、変わらぬ優しさで包んでくれたその指を掴んで、ナビはそっと目を閉じる。
今ナビの胸を満たしているものは、九年前、この手を取った時とはまた違う、胸の熱さだった――