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激しく振り出した雨が、黒いテントを叩く。勢いよくビニールの屋根を弾く雨音は、しかし、店内の喧騒には適わず、中にいる者には届かない。
ただのテント屋台に毛が生えた程度のお粗末な外観に反して、二十畳ほどの店内は意外に広々としている。店の壁には往年のジャズの名曲のレコードジャケットがディスプレイされ、静かに流れるピアノ曲のBGMと相まってこの店の経営者の趣味の良さを感じさせるが、薄暗い空間にごった返す客の声で、そのほとんどは意味のないものになっていた。
「せんせぇー、まだ飲みたりなぁい」
「あん、せんせぇ、私もぉ」
「いいよ、いいよ。好きなの頼みなよ」
一番奥のテーブルでは、ソファーに深く腰をかけた男が、左右に座らせた露出度の高い服を着た女の肩に両手を回し、上機嫌で笑っていた。
斜めに被った英国貴族のような帽子がいかにも気障な印象のその男は、女の肩越しに軽く手を上げて、通りかかったボーイを呼び止めた。
「ねぇねぇ、オーダー頼んでいい?」
きっちりとアイロンがけされた白いシャツに黒いベストを羽織ったボーイは、チラリと男を振り返った。店の暗い照明の中では、金色に近い明るい茶色の髪が却って引き立ち目立っていた。片耳だけに飾られたピアスが、彼が動くたびに光を反射してキラキラ揺れる。
「先生、お金あるの?」
首をかしげて小生意気な視線を送って寄こすそのボーイに、男はますます笑みを深くした。
「心外だなぁ。俺、ツケで飲んだことなんかないよぉ」
「それは、知ってるけど」
ボーイは困ったように眉を寄せ、渋々ズボンの後ろポケットから、オーダー表を取り出した。
「ご注文は?」
ボーイが尋ねると、男は女たちに回していた手を解き、真っ直ぐボーイを指差して言った。
「ナビちゃん一つ、お願いします」
「はぁ?!……っうわっ! ちょっと!」
言うが早いか、男はボーイの手を掴んで、そのままグイッと引き寄せた。
ボーイは女と男の膝の上にダイブするような形になり、女の方から抗議の悲鳴があがる。
「ちょっと、君、どいてくれない」
さっきまで隣りにはべらせて喜んでいたくせに、男は笑顔で女に席を立つよう促し、開いたスペースにボーイを座らせ、先ほど女にしていたようにその肩に手を回した。
「どんなお酒より、俺はナビに酔いたいな」
「っな?! ちょっと、離してよっ!」
「ほっんと、いつ見ても、可愛いよねぇ」
いつの間にか両手をボーイの肩に回して抱きしめると、横からボーイの頬にキスするような勢いで顔を近づけてくる。
「ちょ……本当に、止めて! 兄貴! 兄貴、助けてっ!!」
タコのように唇を尖らせて、ボーイの膨らんだ頬に吸い付こうとしている男を力いっぱい両手で突っぱねて、ボーイは店の奥に向かって叫んだ。
その時、男の頭の上でスコーンと小気味良い音が響いた。
衝撃で、男の被っていた帽子が前にはじけ飛ぶ。
パーマを当てたまま放っておいた伸びかけの髪が、柔らかくカールして男の横顔を彩る。
「困りますね、お客さん。ウチは、そういう店じゃないんで」
男の背後には、ボーイと同じようにアイロンの利いた白いシャツとベスト――だが、その上に白いエプロンを巻いた――姿の男が、片手にフライパンを持って立っていた。
「ジェビン兄貴!!」
ボーイは救われたというように、男の手を振りほどいて、そのエプロン姿の男の背後に隠れた。
「ウチの大切な従業員を、あんまりいじめるなよ」
「いじめてなんかいないよぉ。軽くチューくらい、アメリカじゃ当たり前のスキンシップよ」
「生憎ここは、儒教の国、韓国だぜ?」
ニッコリ微笑むその顔は、背筋がゾッとするほどの美しさだ。どこか作り物めいて冷たく見えるのは、あまりにも整いすぎた顔立ちのせいだろう。薄暗い店の照明に反射する瞳は、色彩が薄く、灰色がかって見える。
「今度うちの弟に触ったら、ペナルティ料金取るから」
「へぇ? お金払ったら、触ってもOKなワケ?」
男も負けずに笑顔で言い返すが、フライパンを持った男と睨みあうこと数秒――それで、完全に勝負はついた。
男はガックリと肩を落とし、手をヒラヒラと振った。
「分かった、分かりましたよ! 本当、ツレナイんだから」
ブツブツ言いながら、既に氷が解けて味の分からなくなったブランデーを手に取る。
その時、テーブルの下で睨みを利かせていた灰色の猫と目があった。
「やだなぁ。おたくまで牽制することないんじゃない?」
猫の機嫌を取るように、男はテーブルに載っていたチーズを千切って投げてやる。
だが、猫は醒めた目付きで一瞥しただけで、尻尾を降りながらクルリと方向転換してしまった。
「ツレなさ加減は、飼い主に似るのぉ?」
嘆きの声を上げても、懲りずに身体は再び目をつけたあのボーイの元に向き直る。
「あー、でも、ナビヤァ(ナビちゃん)。何か困ったことがあったら、いつでも俺を頼ってね。例えば、妊娠したりとかぁ」
「するかっ!!」
真っ赤になって叫びながら、ボーイは男に向かってオーダー表を投げつける。それは見事に男の頭にクリーンヒットした。
その時、店のドアが開き、店内にザーッといった雨の音が入り込んできた。
「……やっと、見つけた」
店の入口には、ずぶ濡れになりながら、肩で息をする二人の男が立っていた。