手のひらの雨
握りこんだ、ひとしずく……
だって、僕は雨だから。
ほんの一瞬、肩先を濡らして。
おろしたてのスーツが台無しで、
ツイてないけど、
悪くない。
そんな雨だから。
空が晴れたら、僕を忘れて。
通り雨に、降られたんだって――
***
「こりゃ、ひと雨くるかもな」
ガードレールにもたれて、無意識にここ何日か剃り忘れていた無精ヒゲの感触を確かめながら空を見上げた男は、そう呟いて顔をしかめた。
ついさっきまで、サングラスが必要かと思うくらいの日差しだった。夏休みに浮かれる世間とは違い、季節に関係なく働かされる自分には、癪に障るような晴天だった。
それなのに……
夏の天気は気まぐれだ。
男の視線の先で、怪しい雲行きの空の合間からこぼれる陽光が、ソウル駅のガラス張りの駅舎に反射して輝いた。
「……遅いな」
何度となく確かめた『3番』と書かれた停留所の番号を、再び振り仰いで確認する。
やはり、場所に間違いはない。
仁川国際空港から、ここソウル駅まで直通のリムジンバスの到着を、彼はもう有に一時間は待っていた。
約束の時間を過ぎても、目当ての相手を乗せたバスは一向に現れない。
こんなことなら、職場を出る時に、あの口やかましいクムジャ姉さんの忠告通り、傘を持って来れば良かった。
待ち合わせた相手が持っていればいいが、会う前に降り出してしまったら、自分は濡れねずみになってしまう。それで風邪でも引いた日には、姉さんに「それ、見たことか」とバカにされ、しばらく笑い者にされるのは目に見えている。
もう一度空を見上げて溜息をついた時、ターミナルの向こうから、ようやく待ちかねていたバスが姿を現した。
『KALリムジン』と印字された、水色にブルーのラインが入った車体が停車すると同時に、プシューッと空気が漏れるような音を立てて開いたドアから、荷物を抱えた若い男が、転がるように飛び降りて来た。
「兄貴ッ! チョルス兄貴ッ!」
バスから吐き出された人ごみの中に紛れても、頭一つ抜け出た長身の彼は、行く手を遮る人波を掻き分けて、手に引いたトランクをガタガタ言わせながら、こちらへ向かってくる。
「遅いよ、ミンホ!」
男はガードレールから腰を浮かせ、向かってくる若い男を待ち受ける。
「ごめんなさいっ! 渋滞に巻き込まれて」
ようやく人ごみを抜け、息を切らせながら詫びる彼が目の前まで辿り着くと、待たされた方の男は彼の右肩に自分の右肩をぶつけて、それからギュッと強く抱きしめた。
「お帰り、ミンホ。よく帰って来たな」
抱きしめられた若い男の方も、男の背中に手を回すと、ギュッと力を入れてその背を掴んだ。
「ありがとう、チョルスヒョン」
その時、チョルスと呼ばれた男は、若い男の後ろで息を切らせている少女に気がついた。小さな彼女は、長身の若い男の影になっていて、彼からは今まで全く見えずにいた。
「おっと! 悪い。そちらが、例の……」
「あ」
若い男が気付いて振り返る前に、その少女はピョコンと勢いよく頭を下げた。
「パク・ミジュですっ! 初めまして」
クセのない長い黒髪が、サラリと揺れる。
その拍子に、手にしていた大きなキャリングケースが倒れそうになり、若い男が慌てて支えた。
「ごめんなさい、オッパ」
「気をつけて」
慌てて謝る少女に、若い男は柔らかく微笑む。
「最初から見せつけてくれるねぇ」
男が呆れた声を出すと、少女は途端に赤くなって「すみません」と頭を下げた。
「いやいや、君が謝ることなんてないよ。だけど、兄さんを差し置いて、留学先でこんな可愛い婚約者を捕まえて帰ってきた可愛くない弟分には、後でたっぷり事情聴取させてもらわないとな」
ニヤッと笑って、若い男の手からトランクを奪う。
「さ、行こうか。早くしないと、ひと降り来そうだしな。そこで、タクシー拾うから」
「タクシーなんて、久しぶりだな」
若い男は息を吐きながら、周りの人ごみを見渡す。
「何だよ、アメリカはタクシーもないような田舎だったのか?」
男がからかうと、若い男は苦笑しながら首を横に振った。
「そうじゃないけど。向こうじゃ、自家用車がないと生活できないから。銀に青のライン(一般タクシー)が懐かしいです」
「可愛い弟の三年ぶりの凱旋なんだから、黒に黄色(模範タクシー)ぐらい奮発するぜ。相乗りしたいってんなら、別だけどな」
「それも悪くないですけど」
若い男がそう言うと、男はヒュッと甲高い口笛を鳴らしてから、大げさに目を見開いて見せた。
「変わったなぁ、お前。昔は、他人と相乗りなんて真っ平ゴメンのお坊ちゃんだったのに。どこの国の王子様だよって、みんなで笑ったの覚えてるか? アメリカで相当揉まれて来たのか? え?」
肩をぶつけて笑う男に、若い男も同じように笑いながら、逞しく張った肩をぶつけて応戦する。
「揉まれたのはアメリカで、じゃないですよ。たったの三ヶ月だったけど、補職の僕を、本職以上にしごいてくれたのはチョルスヒョンでしょ?」
「こき使われたって言いてぇんだろ?」
人差し指で額を小突いて、男は無精ひげの下の唇を歪めて笑う。
若い男は小突かれた額を擦りながら、周囲の喧騒を見回した。
「それにしても、懐かしいな。この人ゴミ……三年前まで、本当にここで働いてたなんて信じられない」
「おいおい。西海岸でのんびりしすぎたんじゃねぇか? 警察大学校出のエリートの名前が泣くぜ。しばらくはリハビリが必要か? しっかり稼がないと、後ろのカワイコちゃんに愛想尽かされるぞ」
男の言葉に、二人の後を小走りで追いかけてきていた少女が頬を染める。
「式はいつなんだ?」
「まだ、決めてないんです」
「ソウルでやるんだろ?」
「そのつもりですけど……」
その時、男の方ばかりを見て話していた若い男の肩が、すれ違いざまに誰かとぶつかった。
「あっ! すみません」
若い男は肩を押さえて慌てて立ち止まる。
ぶつかったと思われる相手が、ほんの一瞬だけ男を振り返る。
小柄な身体に、目深に被った野球帽から覗くその輪郭はほっそりと華奢で、襟足に伸びた黒髪が、汗で白い首筋に張り付いていた。
「……いえ」
短くそれだけ言うと、彼は再び帽子のつばに手をやり、男に背を向けた。
ニャー……
「うわっ!」
か細い鳴き声とともに、不意に足元をフワリとした感触が撫で、男は思わず飛び上がった。
ごった返すロータリーの人ごみを縫うようにして、痩せた猫が一匹、先ほどの野球帽の彼の背中を追いかけていく。
その時、若い男の足元に、ふいにキラリと光る何かが転がってきた。
「あっ……」
思わず腰を屈めてそれを拾う。
「これ……落としまし……」
そう言って顔を上げた時には、既に彼と猫の姿は雑踏の中に消えた後だった。
「どうした?」
前を歩いていた男が振り返る。その時男の額を、ポツリと一滴、空から降ってきた雨が叩いた。
「……降り出したな」
空を見上げて、溜息をつく。
(――知らないの?)
「早く行こう……ミンホ?」
(猫は、雨を呼ぶんだよ……)
男はうずくまったまま動こうとしない若い男の元へ歩み寄った。側まで近付いて見た時初めて、若い男の手の中に、小さく輝くダイヤのピアスが握られているのが分かった。
「それは?」
先ほどから若い男の視線は、そのピアスに注がれたまま動かない。
「オッパ? どうしたの?」
「え?」
後ろから追いついて来た少女が、若い男の隣りに屈みこむ。
「そこ、血が出てる」
少女が指差したのは、男の右の耳たぶだった。男が手をやると、確かにヌルリと血の滑る感触がして、男の指先を濡らした。
いつ怪我をしたのか、まったく心当たりのない傷だった。
「痛いの?」
「いや……どうして?」
「だって、オッパ……泣いてる」
少女の言葉と同時に、冷たい雨がひとしずく、男の頬を打った。
男は反射的に、手の甲で雨の落ちた頬を拭った。しかし、すぐに新しい雨が、乾く間を与えず男の頬を濡らし続ける。
握りこんだピアスが、手の中でキラリと輝いた。