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第9幕:『緑青の部屋』

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 光に抱かれて昇り、眼を開いたとき、そこは別天地だった。

 黄金の鋭利な輝きも、刺すような鈴の音も、痛みを呼ぶ慈愛の掌も、すべては過去の幻に変わっていた。


 広がるのは、緑の濃淡に満ちた世界。

 天を覆う樹々の葉は風にざわめき、深い森の奥へと道を繋げていた。大地を割って清流が走り、ひとつは湖へ注ぎ、さらに大きな川となって遠くまで続く。湖面は青空を抱き返し、ゆるやかな波のきらめきが、光の破片をいくつも散らしている。

 空を渡る鳥の羽音。水面を跳ねる魚の輪。甘やかで重い果実の匂い。すべてが安らぎを約束する調べであった。


 三人は、しばし言葉もなく立ち尽くした。

 ペネロープが先に声をあげる。

 「……ここは、天国?」

 その声は震えていたが、眼差しには警戒よりも安堵の色が濃かった。


 灯はそっと息をつき、ありんす言葉で呟く。

 「夢のごとき光景にござりんすなぁ……」

 彼女の声はどこか蕩けて、森のささやきに溶け込むようであった。


 アディティは最後まで目を細め、周囲を見回していた。だが、ここでは警戒心すら弱まる。鼻をかすめる香り、耳をくすぐる小鳥のさえずりが、心を解きほぐしていく。


---


 最初に堕落をはじめたのはペネロープだった。

 彼女は頭上からぶらさがる熟れた果実を見つけると、思わず伸び上がった。指先で触れた瞬間、果皮は柔らかに裂け、濃厚な汁が滴り落ちる。

 「わあ……甘い」

 唇に触れた汁は、蜂蜜よりもとろりと濃く、舌に吸い付いて離れない。彼女は夢中で齧りつき、果汁を頬に流しながら笑った。その姿を見た灯も、ふと手を伸ばして果実をもぎ取った。


 果汁が掌を伝い、手首を濡らす。唇を当てれば、芳醇な甘露が喉を潤し、全身に力が満ちていく。

 「……なんと、心地よき味わいにござりんす」

 頬を朱に染め、灯は次から次へと実を採った。


 アディティは最初こそ眉をひそめていたが、やがて誘惑に屈した。彼女が選んだのは木陰の果実ではなく、清流に沈むように浮かぶ青い実だった。すくい上げて口に含めば、ひやりと冷たく、体内の熱を奪うように甘く広がる。


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 果実で腹を満たした三人は、やがて川へ誘われるように足を進めた。

 水面は澄み透り、底の石ひとつひとつまで光を浴びて輝いている。

 灯は草履を脱ぎ、裾をからげて足を浸した。

 「ひゃ……! 冷たぁ……」

 だが次の瞬間、笑い声が弾ける。彼女は両手ですくいあげた水をペネロープへと浴びせた。


 「ちょっと! やめなさいよ!」

 ペネロープも負けじと水をかけ返す。

 水飛沫が陽光を受けて虹の粒となり、三人の髪と頬を濡らした。


 やがて衣を脱ぎ、全身を水に委ねる。白い肌が光に溶け、川の流れが体を撫でてゆく。アディティは水中に身を沈め、魚たちと並んで泳ぎ、灯は声をあげて笑った。

 「まるで子どもに戻ったようにござりんすなぁ」

 しぶきが弧を描き、笑い声がこだました。


---


 水から上がった彼女たちは、森の花々を摘んだ。

 ペネロープは花を束ねて髪に差し込み、アディティは慎重に編み込んで首飾りを作る。灯は両手で大きな花冠を編み、自らの頭にのせてはにかんだ。

 「似合うでありんすか?」

 その笑顔に、ペネロープもアディティも頷かずにいられなかった。


 化粧道具など無いはずなのに、泉に覗き込めば頬は自然と朱をさし、唇は瑞々しく紅に染まる。水面を鏡にしては、彼女たちは髪を整え、互いの顔に花の粉をすりつけ、笑い合った。


 草を笛にして吹けば、かすかな音色が森に漂い、小鳥たちが首をかしげる。アディティは器用に草を編んで小舟を作り、川に流した。小舟はゆらゆらと水面を進み、やがて滝の方へと消えていった。


 歌声がこぼれ、三人の声は溶け合い、森に響いた。

 やがてペネロープが踊りだす。裸足のまま草を踏み、手をひらひらと空に舞わせる。灯も輪に加わり、袖を翻して回る。アディティは最初は遠巻きに見ていたが、やがて肩を揺らし、腰を振り、三人の輪はひとつの舞となって広がっていった。


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 時間の感覚は失われていった。

 日は暮れず、夜は来ず、果実は尽きず、泉は涸れず。

 川辺には常に風が渡り、鳥が歌い、魚が跳ねている。


 「……もう、戦う理由なんて、ないのかもしれない」

 ペネロープがつぶやいた。


 灯は微笑んで答える。

 「ここにおりんすれば、痛みも飢えも、何もござりんせぬ……」


 アディティは黙して川を見つめる。その眼差しにはかすかな疑念が揺れていたが、森の囁きと水の調べが、それすらも溶かそうとしていた。


 三人の笑い声が、風に運ばれて遠くへ消えていく。

 だが、その美しき調和のどこかに、ひとつの「綻び」が潜んでいることを、まだ彼女たちは気づいていなかった。

 ――気づけるのは、彼女たちではなく、見届ける者の眼である。


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