第8幕:『黄金の部屋』
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足を踏み入れた瞬間、三人は思わず息をのんだ。
そこは果ての見えぬ光の間であった。
壁も天井も床も、すべてが黄金に覆われている。だが、その輝きは決して柔らかではない。太陽のごとく照らすのではなく、焼きつくように視界を支配し、影を許さぬほどの密度で満ちていた。
光のない場所はどこにもない。自分たちの身体すら輪郭を失い、金に溶け込みそうになる。
――チリン。
鈴の音が鳴った。
小さな、だが絶対に消えぬ音色。それが一つ響くたび、光の間から「影」が現れる。
いや、影ではない。光から剝ぎ取られた人影のようなもの。
輪郭は揺らめき、顔は無く、ただ黄金の仮面をかぶせられたような存在。
そのひとつが立ち上がると、次から次へと湧き出す。
――チリン、チリン、チリリリ……。
鈴の音の波が押し寄せ、数は無限へと膨れ上がっていく。
気づけば床も壁も光ではなく、「軍勢の歩み」で埋め尽くされていた。
ペネロープが息を呑んだ。
「……何体いるのよ……?」
その問いに答える声はなかった。答える必要もない。数えることなど不可能だからだ。
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軍団は一斉に動いた。
足音はない。ただ「チリン」と鳴るばかり。
だが三人の耳には、それは剣戟にも雷鳴にも勝る圧となって迫ってきた。
灯は懐のかんざしを抜き、帯の鈴を手に結び直す。
「かかってきんしゃりんすか……!」
声は震えていたが、その瞳は覚悟に燃えていた。
最初の一撃を受け止めたのはアディティだった。
迫る影が腕を振り下ろす――いや、武器すら持たない。ただ振るうだけで光が刃と化す。
彼女は手首を返し、流れるように受け流す。
だが次の瞬間には十体、二十体、三十体が同時に襲いかかる。
「っ……多すぎる!」
アディティが歯を食いしばった。
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戦いは混沌の極みに達した。
灯は鈴を鳴らしながら舞うように駆け、かんざしで光の首筋を突く。突くたびに「シャラリ」と金粉が散り、敵は霧のようにほどける。
だが倒した傍から同じ姿が湧き出す。
ペネロープは背を守るように立ち、短剣を閃かせた。
「……来るなら来なさい!」
黄金の軍勢が彼女に群がる。彼女は跳ねるように間合いを外し、逆手に刃を突き立てる。刃先は確かに敵を裂く。だが裂けたはずのものが、次の瞬間には元通りに立ち上がる。
「キリがない……!」
額に汗が浮かぶ。
アディティは冷静に呼吸を整え、敵の波を観察していた。
数は無限だ。だが、音に合わせて揺らぐ一瞬がある。
――チリン。
そのわずかな「間」に刃を滑らせれば、光の兵は深く崩れる。
「音だ……鈴の音が、合図になっている……!」
彼女が叫ぶと同時に、二人も理解した。
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しかし、理解したところで容易に突破できるものではなかった。
軍勢は光の壁のごとく押し寄せる。
踏み込んでも、薙ぎ払っても、切り裂いても、すぐに空白は埋められる。
背後を守る余裕はない。三人は常に散らされ、互いを見失いそうになる。
灯がかんざしを巨大化し振り上げ、必死に鈴を打ち鳴らす。
「はぐれてはなりんせん……! はぐれては!」
だが声は敵の鈴音にかき消され、届かぬ。
ペネロープは孤立し、金の影に囲まれた。
「こんな……終わり方、認めない!」
叫びと共に短剣を突き立てる。だが影は笑いも声もなく、ただ「チリン」と答えるだけだった。
その音が、心を削っていく。
どれほど抗っても、無限の軍団の前には無力――そう告げられているかのように。
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三人の身体は傷だらけだった。
光に裂かれた衣は破れ、肌には焼けつくような痕が残る。
息は荒く、視界は霞む。
しかし、彼女たちはまだ立っていた。
絶望の淵に立ちながらも、膝を折ることだけは拒んでいた。
――チリン。
再び音が鳴る。
それは敵を呼ぶ音であると同時に、試す音でもあった。
黄金の間は、戦う者の心を削り、すり減らし、やがて光に溶かそうとしていた。
三人は知っていた。
これはただの戦いではない。
ここで屈すれば、己は「誰でもないもの」になり、この光の一部に溶けてしまう。
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黄金の間は、音で満ちていた。
――チリン、チリン、チリリリ……。
それは確かに鈴の音。だが刃より鋭く、杭より深く、鼓膜を貫き、脳髄に食い込む。
軍団は尽きることがない。
倒せば生まれ、裂けば戻り、突けば溶けて、また形を取る。
さらに、三人が浴びる痛みは決して終わらなかった。
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灯の肩口を光の刃が裂いた。
血が噴き、骨が覗いた瞬間――
背後から――いや、四方八方から、千の掌がいっせいに伸びてくる。
小さな掌、大きな掌、皺だらけの掌、幼子のような柔らかな掌。
それらが彼女の裂けた背を撫で、血を拭い、肉片を押し戻していく。
「ひっ……!」
ぞわぞわと、無数の指が背骨に這い回り、骨の隙間に食い込み、肉を寄せ合わせる。
痛みは消える。
――ズバッ。
次の瞬間、薙刀が肩を裂いた。
また千の手が群がり、彼女を癒す。
裂けては直り、直っては裂ける。
終わらない循環に、灯は叫んだ。
「やめんしゃりんす……!やめて…」
だが掌は止まらない。
後ろから千本の手が一斉に伸び、彼女の肉を撫で、血を拭い、肉片を押し戻す。
掌は温かく、慈悲のように優しい。
だが、それが一斉に群がる様は、まるで千の蟲に這われるかのよう。
灯は息を詰め、だが傷は塞がり、痛みは消える。そしてすぐに、また刃に裂かれるを繰り返す。
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別の場所で、ペネロープは矢に撃たれていた。
脇腹を貫かれ、血が滲む。
痛みに呻いた瞬間、天井からするすると布が垂れてきた。
黄金の羽衣。
霞のように柔らかく、香のように甘い香りを放つ。
その布は彼女の体に絡みつき、矢を抜き、裂け目を結ぶ。
血は瞬時に止まり、肌は滑らかに戻る。
「助けてくれるの……?」
そう思う間もなく、次の矢が肩口を裂いた。
また羽衣が降りてきて、彼女を包み、癒やす。
血を吸い、傷を縫い、香りを残す。
「……ちがう……終わらせない気……陰険よ」
羽衣は優しい。
だが優しさの名のもとに、彼女を永遠にここに繋ぎ止める。
死ねない、逃げられない。
それは慈悲ではなく、牢獄だった。
ペネロープの脇腹に矢の影が突き刺さる。
彼女は呻きながらも刃を振るった。
すると、天井から垂れるように長い布が揺れ降りる。
羽衣――淡く輝き、柔らかで、香のような匂いを放つ布。
それが彼女の身体を絡め、矢を抜き、血を吸い、裂け目を縫うように結んでいく。
苦しみは消え、美しさが残る。
だが布が去った後、また新たな矢が飛び、彼女を再び裂いた。そして布はまた降りてくる。
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アディティの胸を、影の槍が貫いた。
その場に崩れ落ちる彼女の頬へ、透明な雫が落ちる。天井から悲哀に満ちた表情を浮かべた者たちの顔、その両目から滴り落ちてくる。
――涙。
雨のように降り注ぎ、彼女の傷口を濡らす。
すると肉は閉じ、血は止まり、槍の痕跡すら消える。
涙は甘く温かく、彼女を母に抱かれるような安らぎで包む。
だがその直後、別の槍が背を貫く。
また涙が降り注ぐ。
「……これは……慈悲ではなく、牢獄……」
彼女は震えた。
アディティは再び胸を槍に貫かれた。
血を吐き、崩れ落ちる。
黄金の像たちの頬から零れた涙が、彼女の胸に落ちるたび、裂け目は閉じていく。
温かく、甘く、母に抱かれるような感覚が広がる。
「……やさしい……」
そう呟いた刹那、背後から槍が突き抜けた。
再び涙が降り、傷を閉じる。
内臓をかき回す痛みは残ったまま、ただ「死ぬこと」だけを奪われる。
「……こんなの、慈悲じゃない!」
アディティは絶叫し、血を吐きながらも、突き立てられた槍の柄を自ら折った。
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三人は交互に、あるいは同時に傷を負い、そして癒された。
千の手が群がり、羽衣が絡み、涙が滴り続ける。
慈悲の形を取ったそれらは、決して「終わらせてはくれない」。
死ねば楽になれるのに、死ぬことを許さず、ただ生かし続ける。
無限の痛みと無限の治癒が、三人の心を磨耗させていった。
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三人はそれぞれの「無限の救済」に押し潰されかけていた。
だが、理解した。
この部屋の存在は、終わらせてくれない。
死を与えず、痛みだけを繰り返させる。
その地獄から抜け出す方法はただ一つ。
敵の手に握られた武器を奪うこと。
灯は両手で槍を掴み、掌を裂かれ血を噴きながらも奪い取った。
「もう、終いにしとうござりんす!」
そして逆に突き返した。
黄金の像が、初めて崩れ落ちた。
ペネロープも、羽衣に絡まれながら弓を引きちぎり、矢をつがえた。
怒りと涙を込めて放つ矢が、像を粉砕する。
アディティもまた、涙に濡れながら薙刀を奪い取り、真横に払った。
黄金の首が飛び、光の粒となって消える。
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「灯!」
「ペネロープ!」
「アディティ!」
互いの声が届く。
三人は背中を合わせ、敵の武器で敵を討つ。
金属の衝突音、裂ける音、鈴の音が混ざり合い、部屋全体が戦場の嵐となった。
背を預け合い、呼吸を合わせ、奪った武器で斬り、突き、弓を放つ。
金色の軍団は次々と崩れる。
だが尽きない。
終わらぬ輪廻のように、幾千幾万の像が押し寄せる。
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その時だった。
黄金の波が割れ、奥からひときわ大きな存在が現れた。
静かに座し、両の掌を天に向ける姿。
表情は揺るぎなく、慈愛そのもの。
その掌がゆるやかに三人を包み込む。
「……!」
抗うことはできない。
だが、三人は悟った。
この掌に身を委ねること。
光を恐れず、掴まれて昇ること。
それこそが出口なのだと。
掌に抱かれた三人の身体は浮かび上がり、黄金の部屋の天井を突き抜けていく。
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黄金の光が視界を満たし、音が遠ざかっていく。
やがてまぶしさが和らぎ、緑と青の匂いが鼻をくすぐる。
鳥の羽ばたき、水の流れる音、花々の香り。
その世界に入る直前――
三人は最後に背中合わせのまま互いを確かめ合った。
次に目を開けたとき、そこは緑青の間。
黄金の地獄の先に待つ、もうひとつの世界だった。
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