第7幕:『灰色の部屋2』
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灰色の部屋に、淡い光が揺れていた。
壁も天井も床も、すべて灰に沈んだように色を失い、輪郭だけが浮かぶ。そこに三つの影が歩み入ると、空気が変わった。
先頭に立ったのはアディティだった。
彼女はもはや先ほどの怪物の姿ではなく、絶世の美女の姿を取り戻していた。
右腕には、曲線を描く剣。刃の根元に埋め込まれた赤い宝石が脈動し、刃先は炎の舌のように微かに揺れている。
左腕には、蓮模様の盾。中央の青石は水面を閉じ込めたかのように煌めき、傾けるたび波紋が走る。
腰には虎、象、蓮の仮面を金で象った面を括りつけ、歩くたびに鈴が「チリン…」と鳴る。銀の澄んだ響きは、静寂の部屋に唯一の旋律を与えた。
さらに左腕にはガルーダの羽根を模した腕飾りを巻きつけている。金属で編まれた羽根は風を孕み、先端に刻まれた雷紋が一瞬ごとに光を帯びる。
衣は深紅から藍へと移ろうグラデーション。裾が揺れるたび、燃え立つ炎と夜の水面を同時に思わせた。
額に紅のビンディが煌めき、黒曜石のような瞳は一度向けられれば逸らすことを許さない。
彼女が一歩進むだけで、この灰の空間に命が宿るようだった。
そのアディティが、ためらいなく部屋の中央に腰を下ろした。背筋は弓のように伸び、膝を折る姿には揺るぎなき自負が漂う。
彼女の所作が合図のようになり、灯とペネロープも互いに視線を交わし、三角を描くように座った。
最初に口を開いたのは、灯だった。
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灯は、懐から一つの面を取り出す。それは「増女の面」。
頬の皺、強張った口元、鋭い眼差し。老女の顔を模したその面は、ただの木彫りであるはずなのに、不気味な生命を宿しているように見えた。
灯は面を前に差し出し、声を震わせた。
「母の顔を……どうしても思い出せないんでありんす。この面を手にしてから、余計に……母の貌と、この貌とが、重なりそうで、離れていくでありんす」
アディティは静かに面を受け取ると、指先で頬をなぞった。まるでそこに刻まれた深い皺を確かめるかのように。そして、面を被る。
「顔とは、血肉ではなく、祈りと記憶が映すもの」
彼女の声音は、硬質でありながら優しかった。
「忘れてもよい。形を失ってもよい。母を想う心がある限り、その顔はお前の内に息づく」
アディティは面を外してから、もう一度見つめ、そしてきっぱりと灯に返してきた。
「だが、これはお前のものだ。抱えるも、返すも、お前の選択に委ねられる」
灯は両手で面を受け取り、しばし目を閉じた。その胸の内に去来する痛みは、少しずつ形を変え始めていた。アディティに真似、面を自分の顔に被せてみた。
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次に声を出したのはペネロープだった。彼女は顎に手を添え、伏し目がちに微笑む。
「私の顔……今はもう、誰も正確には覚えていないでしょうね。曖昧で、霧に溶けたみたい」
アディティは、真っすぐにその顔を見据えた。
「曖昧なのではない。禁具のせいだ」
ペネロープの眉が動く。
「禁具……?」
アディティは彼女の胸元を指さした。そこには、錆びた懐中時計が吊り下がっていた。
「時を操る道具だ。お前は己の老いを拒んだ。その代償として、顔という唯一の象徴が、揺らいでしまったのだ」
ペネロープの表情から、血の気が引いた。
「……私……昔、顔の無い自画像を描いたの。それで、無い顔に鏡を貼ったのよ。私の全盛期を鏡に映した。やがて、わずかな老いを見つけてしまったわ。腹が立って……その鏡を、この時計で叩き割った」
彼女の声は震えていた。
「まさか、その瞬間から……?」
アディティは頷いた。
「お前の顔は、己が選んだ拒絶によって曖昧になった。鏡を砕いたのは、時間を砕くことでもあったのだ」
ペネロープは唇を噛み、鏡片が散る記憶に飲まれていった。初めて真実を知ったその瞬間、彼女の肩は細かく震えていた。
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灯はペネロープに向き合った。彼女の震えに気づき、口を開いた。
「……わっちはずっと、ペネロープ殿の顔を見失っておりんした。曖昧で、捉えられぬと思っていたでありんす」
灯は今度は視線を横に向け、アディティの顔をしっかりと見据えた。
「けれど、アディティ殿の顔ははっきりと捉えておりんす。……それが、そなたの顔の苦しみのせいだと知り、胸が痛むでありんす」
ペネロープははっと顔を上げた。その眼差しに嘆きと慈しみが入り混じっていることに気づき、言葉を失った。
その瞬間、二人の間に初めて小さな結束が芽吹いた。
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空気を断ち切るように、バステトの声が響いた。
「備えは、整ったか?」
次の瞬間、天井から、壁から、床から、無数の装身具が現れた。
黄金の首飾り、銀の腕輪、仮面、宝石、鏡、鈴──煌めきと錆びが入り混じり、部屋を埋め尽くす。
三人の反応は対照的だった。
灯は手に戻した「増女の面」をゆっくりと見つめ、やがて立ち上がって、その群れの中へ戻した。
「……母の呪いは抱かぬ。想いだけで、十分でありんす」
アディティは一歩も動かず、首を横に振った。
「私は何も要らぬ。己の力で進むのみだ」
ペネロープは視線をさまよわせ、ついに銀の短剣を取り、さらに金の指輪へと手を伸ばした。
「……美しい……欲しい」
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やがて、灰色の壁に扉が浮かび上がった。
亀裂から、眩い黄金色の光がこぼれ出す。その光は三人の顔を染め、長い影を床に落とした。
灯、ペネロープ、アディティは立ち上がる。
三者三様の選択を抱えながら──。
扉の先、圧倒的な黄金の世界が待っていた。
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