第6幕:『赤の部屋』
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赤の部屋に、濃い香が漂っていた。
蓮を模した香炉が絶え間なく煙を吐き、空気を甘く、重く染め上げる。
壁は血肉のように脈打ち、床は熱を帯び、吐息のように震えていた。
そこに立つは、ヨーギニー──アディティ。
二つの頭と、四本の腕。
右の頭は烈火のように目を光らせ、嗤う。
左の頭は水面のごとく静かに伏し、祈るように唇を閉ざす。
右手には赤宝石を抱いた曲線の剣。
左手には蓮模様の盾。
背の右腕は虎の仮面を掲げ、左腕はガルーダの羽根を握る。
ひとつの肉体に、怒りと静けさ、獣と神鳥が同居していた。
「四つの選択──斬るか、守るか、変わるか、飛ぶか」
重なり合う声は二重にも三重にも響き、部屋そのものを震わせた。
灯は震える息を吐き、黒き蜘蛛の装身具を取り出す。
指先で撫でると、脚がカチリと開き、黒糸の影が床を走る。
「……この命綱、繋いでみせんす」
ペネロープは白銀のトンボを手にする。
翅が光をはじき、空気を切り裂くように震えた。
「なら、私は飛ぶ。自由は、掴み取るものよ」
二人は並んで踏み出した。
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ガンッ!
剣が床を打ち据え、赤い火花が散る。
アディティは虎の仮面をかぶった。
瞳が黄金に燃え上がり、唸り声が空気を揺さぶる。
「怒りは隠さぬ──ならば、斬る!」
ギィンッ!
剣閃が奔り、床石が裂ける。
灯は蜘蛛糸を張り巡らせ、跳ねてかわす。
「速すぎんす……ッ!」
ズバァッ!
盾が薙ぎ払われ、ペネロープの身体が宙を舞う。
白銀のトンボが羽ばたき、ぎりぎり体勢を立て直した。
「ッ、こいつ……正面は無理」
「背から攻めんす!」
蜘蛛の糸とトンボの翅が交差する。だが─
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ガルーダの羽根が震え、シュウウウウッ! 暴風が巻き起こる。
キィエエエエエッ!
神鳥の咆哮が、二人の動きを封じた。
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次に象の仮面をかぶる。
アディティの声が低く澄み、盾から蒼光がほとばしった。
「守ることは、忘れること。痛みを流せ」
ゴウンッ!
衝撃波が放たれ、蜘蛛糸が焼き切れる。
灯は膝をつき、胸を押さえる。
「……心臓ごと削られるようでありんす……ッ」
ペネロープは歯を食いしばった。
「忘れさせようなんて、傲慢ね!」
白銀のトンボが疾駆し、顎で盾を噛もうとする。
だが一閃で弾かれ、翅に深い傷を負った。
さらに蓮の仮面をかぶる。
風が凪ぎ、顔が幾重にも揺らぐ。
獣、神、無面──いくつもの姿が交錯する。
「変わることは、選ぶこと……私は……何を……」
断片的な声が漏れ、部屋がざわめいた。
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「ここで、退くわけにはいかんす!」
灯は蜘蛛を前へ投げ出す。
黒糸が幾重にも張りめぐり、アディティの剣をわずかに縛めた。
「トンボ! 今よ!」
ペネロープの声に応じ、白銀の翅が閃き、アディティの仮面へ肉薄する。
顎が仮面の縁を噛み砕いた。
しかし──
轟音とともに火花が散り、蜘蛛は四肢を砕かれ、トンボは翅を裂かれた。
糸も翅も地に落ち、もう動かない。
「……お役目、ご苦労でありんした……」
灯の声は、震えつつも哀惜を帯びていた。
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蜘蛛とトンボの犠牲が、確かに裂け目を作っていた。
その瞬間を逃さず、灯は腰の鈴付き帯留めを打ち鳴らした。
シャリンッ──鈴の音が重なり、幻惑の波がアディティの二つの頭をかすめる。
「今の一瞬、迷うておりんす!」
ペネロープは腕を振り、肩の銀の腕輪をしならせる。
鋼の鞭が閃き、剣を叩き逸らす。
灯は杵型のかんざしを握り、これを大杵に変えて力いっぱいで踏み込み、縦にに振り下ろす。
「生きるためなら、顔を偽ることも、選び取ることも──人は皆してきたことにありんす!」
連撃。
鈴の音が頭を揺らし、鞭が腕をはじき、かんざしが仮面を裂いた。
ガキィィィン──!
虎も象も蓮も砕け、羽根はもがれ、赤い煙の中へ崩れ落ちる。
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戦いの終焉を告げるように、ガルーダは空へ消え、仮面は沈黙した。
赤の部屋に再び静寂が訪れる。
灯とペネロープが肩で息をしているその向こう、アディティの姿がまだ揺れていた。
四本の腕が溶け、二つの頭が重なり合い──やがて、ただ一人の女性となる。
現れたのは、怪異とは似ても似つかぬ、息を呑むほどの美女。
深紅の光に照らされた顔は、彫刻のように整い、冷たさと慈しみを同時に宿していた。
ただし腰にはなお、砕けた仮面の欠片を提げている。
「選ぶことは、祈ること。私は祈りの者でありたい」
その声は戦いの咆哮ではなく、人としての言葉だった。
灯は汗を拭いながら、かすかに笑んだ。
「顔が多いんは……苦しゅうても、強うなれる証にありんす」
赤の部屋の鼓動が静まり、やがて灰色へと変わっていった。
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