第5幕:『灰色の部屋』
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その空間は、光をも闇をも拒む曖昧な色調に満ちていた。
境界がなく、床と壁と天井すら曖昧に溶け合っている。
黒の回廊から入った灯は、裾をすり足で運び、慎重に舞うように歩む。
目の前には、無数の鏡。
どれもが彼女の姿を映すが、姿形は同じではなかった。
笑う自分、泣く自分、怒る自分、無表情の自分──鏡の中に現れるのは、ありえたかもしれぬ無限の自分。
ひとつを見据えれば、他が揺らぎ、どこまでも自分を追い詰めてくる。
「これは……わっちの影身んすか……」
灯は囁き、杵かんざしを握り直す。
足の運びは舞の所作そのもの。幻を祓うように袖を広げ、静かな気迫を纏っていた。
一方で、白の回廊から入ったペネロープは、靴音をコツコツと響かせながら闊歩していた。
彼女の目に映るのは無限の仮面。
能面、狂言面、異国の道化、戦士の兜──次々と現れ、彼女を取り囲む。
仮面たちは笑い、嘲り、威嚇する。
「フン……安っぽい幻ね」
ペネロープは挑発するように唇を歪め、腕を組んで仮面を見上げた。
その気配は堂々たる狩人のもの。幻影をも獲物としか見ていない。
──そして。
部屋の中央。
それぞれの幻影に囲まれながら、二人の視線が交錯した。
だが、その目に映った相手は“本物”ではなかった。
灯には、ペネロープの姿が「無数の鏡に映る、自分ではない誰か」として映った。
ペネロープには、灯の姿が「群れの中に割り込んできた新たな仮面」と見えた。
幻影が二人を錯乱させ、互いを“敵”と誤認させる。
「……何者んす?」
灯の声は震えていた。だが構えた杵かんざしの先は、確かにペネロープを捉えている。
「道化は一匹で十分よ……」
ペネロープの唇に浮かんだ笑みは冷ややか。
装身具に触れ、攻撃の構えを見せる。
──張りつめた空気。
舞と闘気が交錯し、次の一歩が即ち斬り結びに至る。
幻影の灰色の空間は、二人を意図的に衝突させようと蠢いていた。
緊張が限界に達したその瞬間。
ペネロープの懐中時計、禁具の力が一瞬だけ発動した。
時間が歪み、灯の姿が揺らぎかけ──
「戯れはそこまでじゃ」
低く、響く声。
灰色の胴長な猫が、二人の間にすっと割り込んだ。
黒猫と白猫の姿を合わせたような、不思議な色合いの猫──バステト。
長い尾を揺らし、瞳は人のように冴え冴えと光っている。
「代償を払ったな、娘」
猫の声が、冷たく響いた。
ペネロープは息を呑む。
気づけば、その顔は輪郭を失い、曖昧に揺らぎ始めていた。
だが彼女自身はまだ理解していない。
幻影はすっと霧散し、ようやく二人は真正面から相まみえる。
けれど、灯の目には曖昧な顔が残像のように映り、判然としなかった。
(……幻の後遺症んすか……)
己が相手の顔を識別できぬのは、灰色の部屋のせいだと、灯は思った。
そのとき、胸の奥に鋭い痛みが走る。
母の姿──顔を隠して生きた母の境遇が、曖昧な彼女に重なったのだ。
思わず、灯は口にした。
「……母様」
その呼び名に、ペネロープの眉がぴくりと動く。
灯の声には震えがあった。
けれどペネロープは冷ややかに鼻で笑い、わざと低い声で言い放つ。
「母様? ……冗談じゃないわ」
「私が誰かの母だなんて、心外にもほどがある」
バステトが前脚でトンと床を叩くと、部屋の光景はがらりと変わる。
鏡も仮面も消え去り、代わりに耳飾りや帯留め、指輪、香水瓶が舞い散り、螺旋階段の入口を形づくった。
地下に広がる「装身具図書館」。
壁を覆う巻物と絵巻には、装身具の由来と記憶が記されている。
バステトが前を歩き、二人を導いた。
「禁具は代償を、神器は均衡を……ここではそれらの真実を知ることができる」
灯の目の前に、ひとつの小箱が転がってきた。
開けば、中には小さな 鈴付きの帯留め。
掌に載せた瞬間、鈴は微かに鳴り、空気を揺らして幻を祓う。
灯の舞の気配と共鳴するように音が広がり、蜘蛛の糸が震えて光を帯びる幻を見せた。
一方、ペネロープの足元に銀の輝きが現れた。
彼女が拾い上げると、それは 銀の腕輪。
腕に嵌めた瞬間、鎖のような光が鞭となって迸り、空間を裂いた。
彼女は冷笑を浮かべ、試すように腕をひと振りする。
さらに壁は赤に変じ、炎に照らされ、中央にひとつの石像が立っていた。若き女──アディティ。
その姿は力と孤独を併せ持ち、冷たくも哀しい気配を放つ。
バステトが言った。
「この像を本来の姿に戻すのは、おぬしらの務め」
尾を赤き方角へ向ける。
「次に進むは赤の部屋。そこで待つのは、彼女との対面だ」
赤の部屋への道筋が示された。
硬く大地を踏みしめる灯の歩み。
舞うように流れるペネロープの足取り。
強さの奥にある脆さと、優雅さの奥にある鋭さを抱えた二人は、並び立って赤の扉へ進んでいった。
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