第3幕:『黒の部屋』
灯が足を踏み入れた瞬間、空気は重さを増し、墨のように黒い部屋は光を拒んだ。
壁も天井も床もなく、ただ虚無に近い闇が広がっている。
黒猫が囁く。
「ここは、あなたの“忘れたもの”が眠る場所です」
そう告げると闇に溶け、灯はひとり残された。
能面を手にしたとき、囁きが響く。
「あなたが最後に見た母の顔は、涙ではなく微笑だった。忘れたのは、痛みではなく、優しさ」
その声に呼応し、床に舞台の影が浮かび上がる。
一歩踏み出した瞬間、母の舞姿が現れる──が、顔は空白のままだ。
次の刹那。
部屋全体が振動し、床も壁も天井も埋め尽くすように装身具が並び出す。
耳飾り、数珠、指輪、首飾り──数え切れぬほどの宝飾が一斉に呼吸するように震えた。
その中で、ひとつ。黒曜石の腹を持つ蜘蛛のブローチが跳ねるように浮かび上がり、糸を引いて闇に降り立つ。
──女郎蜘蛛。
その姿に、母の影が重なった瞬間、灯の胸に冷たいものが走る。
蜘蛛が糸を放つ。
ひゅん、ひゅん、ひゅん──!
細いが鋭い糸は、空間を裂くたびに閃光を散らした。
衝突した壁面からは、灯の過去の断片が幻影として浮かび上がる。母の笑顔、涙、怒り。
幻影が次々と空間を埋め尽くし、現実と記憶の境界が歪んでいく。
「母様……!」
杵かんざしを振りかざし、迫る糸を叩き落とす。だが、一筋でも触れれば皮膚を焼くような痺れが走った。毒。
次の瞬間、幻影の母が目の前に現れる。
「どうして置いていったの?」
「わたしを忘れるなんて、ひどい子」
胸を抉る声が、脳を直接叩いた。
糸は容赦なく降り注ぎ、舞うようにかわすが、細かい傷が積み重なり、毒が体を侵していく。
やがて全身が糸に絡め取られ、灯は繭に閉じ込められた。
闇の中。
繭は記憶を改ざんし、母の笑顔を涙に変え、優しさを憎悪に変える。
能面の声が刺すように響いた。
「違う、それは偽り。おまえが忘れたのは“痛み”ではなく“優しさ”だ」
──優しさ。
その言葉が胸を突き、記憶の奥底に眠る舞の姿を呼び覚ます。
袖の翻り、足の運び、眼差しの柔らかさ。
母は最後に確かに微笑んでいた。
繭の内で灯は舞い始めた。
動けぬはずの体が、記憶の舞をなぞるごとに震え、糸を内側から震撼させる。
ぶちん──。一本。
ぶちぶちぶち──!
繭が裂け、白い糸が四散する。
灯は抜け縄のようにするりと飛び出し、杵型かんざしを構えた。
「母様の顔は、ここにあるんす!」
蜘蛛が咆哮を上げ、糸を乱れ撃つ。
空間が千切れ、幻影が幾重にも襲いかかる。だが、灯の舞は一歩ごとにそれを払い、袖でいなし、足で踏み越えていく。
能面の声が重なる。
「超えよ、母を──!」
舞とともに杵が巨大に変わり、雷鳴のような気配を帯びる。
蜘蛛の糸が最後の檻を編もうとした瞬間、灯は全身をしならせて宙を舞った。
「これが、母様とわっちの舞!」
──轟音。
大杵が女郎蜘蛛を叩き潰す。
黒曜石の腹が砕け、無数の光とともに糸が弾け飛び、幻影が破裂するように霧散した。
静寂。
足元に落ちたのは、ただの冷たい装身具。
黒曜石の腹を持つ蜘蛛のブローチ。動かない、ただの禁具。
灯は荒い息を吐き、涙を拭った。
母の舞の余韻が胸を震わせる。
──黒猫が現れた。
沈黙のまま、ただその瞳に光を宿し、見守るように。
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