終幕:『紫の部屋』
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「ようこそ、いらっしゃいました」
あなたは今、紫に沈む空間へと迎え入れられました。
天井も、壁も、床も、深い葡萄色の気配を帯びています。
ただ単純に塗りつぶされているのではない。
光を吸い込み、時に柔らかく反射するその紫は、まるで呼吸しているかのように濃淡を変え、あなたの目に穏やかな波を寄せてくる。
広い空間に、音はほとんどありません。
静寂というよりも、余白といった方がいい。
その余白に、あなたは自然と心をゆだねている状態です。
視線を移すと、一脚の長椅子があります。3人は座れます。1人で座りますか?それとも、どなたか呼びますか?
その長椅子は紫色の布で覆われ、曲線を描く背凭れはどこか宮廷の家具を思わせます。
腰を下ろしてみれば、驚くほど柔らかく、しかも体の形を優しく受け止める。
ただ座るというだけで、すでに一つの儀式を終えたような気持ちになれるでしょう。
正面の壁には、大きな絵が掛けられていますね。額縁は豪奢で、黄金と漆黒が渦を描き、彫り込まれた葡萄の房や花々が絡み合っている。それ自体が芸術品であるが、額の中に収められたものはさらに不思議な力を持っていた。
――“緑青の部屋”というキャプションがついています。
そこには三人の人物が描かれています。
いや、描かれていると同時に、息づいているように見えませんか?
木々の下で果実をむさぼる者。
湖に身を沈め、水面を揺らす者。
花を髪に挿し、歌を口ずさむ者。
怠惰と快楽、穏やかな忘我に浸るその姿は、絵画のはずなのに動いているのがわかるでしょう。
そう、あなたは彼女たちを知っている!
それは絵の中の存在ではなく、実際に戦い抜いてきた三人だから…
しかし、いま目の前にいる彼女らは、もう別人のよう。
絵の中に取り込まれ、永遠の享楽のひとときを与えられ、ある意味、囚われています。
見ているこちらが酔ってしまいそうな光景。
豊かな色彩は目を眩ませ、香りまで漂ってくるかのようですよ。
あなたは額縁の前に座りながら、彼女らの堕落を「鑑賞」している自分に気づくはずです。
それは罪か、それとも芸術への礼儀か。
答えの出ない問いが胸をくすぐるのでは?
ふと視線を巡らせば、壁際に無地の掛け軸が吊られていますよ。
真っ白のまま、ただそこにある。
何も描かれていないが、それは欠落ではなく、むしろ「まだ何にでもなれる」力強い沈黙のようです。
その隣にはイーゼルが立てられています。
乗せられたキャンバスは、こちらも白紙。
見つめているうちに、あなたは誰かをこの空白の上に描きたくなるかもしれない。
もし気分じゃなくても、そのうち誰かが描くかもしれないですよ。
さらに、粘土がひとつ。台の上に置かれています。粗削りだが、均整の取れた塊。
作り手を待っているかのように静まり返っています。
未来の像の可能性が、この石の奥に眠っているように思えませんか?
それとも…もう既に、うまれてくる形は決まっているのかもしれない。
おや?
あなたの足元に、気配が生まれましたよ。
――灰色の猫がやってきたのです。
細長い胴としなやかな脚。
顔立ちは鋭く、どこか古代の壁画に描かれたエジプトの神獣を思わせる雰囲気。
毛並みは淡い光を帯びていて、紫の床に馴染むと同時に、むしろ、そこから切り取られた影のようでもある。
猫はあなたの前に腰を下ろし、黄金色の瞳をまっすぐ向けてきました。何かを訴える目ですね。
「何かを期待している」かのように…
その瞳には飢えや欲はなく、ただ純粋な問いかけが宿っているようです。
じっと…見てきます。
――あなたは、何を望むのか。
――この部屋で、何を描き、何を選ぶのか。
猫は声を発さない。
けれど、その無言のまなざしが、あなたに問いを投げかけている。
紫の部屋は静かだ。
椅子の座り心地は極上で、時間さえもここでは緩やかに流れる。
絵の中で堕落に沈む三人。
真っ白な掛け軸とキャンバス。
未完成の粘土。
そして足元で待つ猫。
一度、深呼吸をしてみませんか?
そして、この部屋で次の物語をはじめるのはいかがですか?
気が向いた時で良いので…
――これにて、終幕。
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