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第1幕:『顕現する灯』

---


夜の寺は、墨を流したように静まり返っていた。

風はやみ、香は灰となり、空気は祈りの言葉を待っている。


僧たちが円になって座る。

衣は灰色、声は低く、目は閉じられている。

中央には、四つの掛け軸が吊るされていた。


一つ目──女商人。

金貨を数える細い指先。唇は結ばれ、笑みはない。


二つ目──遊女。

紅をひいた口もと、扇を開き、視線は誰にも向けられない。


三つ目──巫女。

面を抱え、風をまとう。足元には雷の紋。

伏せたまぶたの奥に、かすかな笑み。


四つ目──舞妓。

白粉を引いた肌。杵形のかんざしを持ち、

顔は面に隠されている。


僧たちは低く唱える。

「絵よ、裂けよ。絵よ、語れ。絵よ、選べ──」


掛け軸がふるえた。

絹がきしみ、墨がにじみ、色が揺らぐ。


女商人は金貨を落とし、

遊女は扇を閉じ、

巫女は風をやめた。


ただひとつ、舞妓の絵だけが舞で応えた。


---


墨と朱で描かれた舞妓、名を灯という。

白粉の肌は紙の奥に沈黙し、面は筆の奥で微笑みを秘めていた。


最初に動いたのは袖だった。

絹の流れが紙の表を越え、風を孕む。

次に杵形のかんざしがわずかにふるえ、光を反射する。

それはもう絵具の光ではなかった──生きた光だった。


舞が始まる。

掛け軸そのものがゆるやかに揺れ、

壁の重さから解き放たれたように漂う。


灯の腕が紙の枠を越えた。

白粉の肌が空気をなでる。

袖が軸の端からこぼれ出し、空間を触れる。

そのとき、絵は「絵」であることをやめた。


面が紙の中でわずかに傾ぐ。

その角度は、見る者の記憶に忍び込む。


足が掛け軸から抜け出す。

だが音はない──まだ完全には顕現していない。


舞が進むたび、袖、腕、かんざし、足…そして最後に面。

灯は少しずつ、自分の存在を外の世界へ分け与えていった。


舞が極まり、掛け軸の絵はほとんど空になった。

灯は宙に浮かんだ足を静かに降ろす。

畳に白粉の足が沈み、かんざしがかすかに鳴った。


彼女は型を取った。

片足を引き、袖を広げ、面の角度を絶妙に保ったまま──

静止。

かすかな光とつやを併せ持つ、美の終わり。


だが背後の掛け軸はまだ揺れていた。


---


掛け軸が裂ける。

びり、びり…と絹が破れ、墨が夜気に溶けていく。

足元に和紙の欠片。背には裂けた余白。


灯の肌は和紙のきめを残し、声はまだ生まれない。

僧たちは目を開いたが、言葉は出なかった。


ただ一つの面──能面「増女」が、灯の前に置かれる。

灯はそれを取り、縁を指でなぞる。


やがて、巫女の掛け軸を指さす。

そこには、まだ顔が描かれていなかった。


灯は静かに歩き出す。

夜の闇へ溶けるように姿を消した。

その足音は、寺の奥深くまで沈んでいった。


---


灯の姿が闇に溶けてから、

しばしの間、誰も動かなかった。

ただ、風もないのに、

巫女の掛け軸がかすかに揺れていた。


墨の線が、ほんのわずかに濃くなる。

輪郭が、紙の上で呼吸をしている。

まだ描かれていなかった顔のあたり──

そこに、うっすらと白粉の下地が浮かび上がった。


僧のひとりが息をのむ。

だが、その瞬間、色はすっと消え、

何事もなかったかのように紙は静まった。


寺の奥から、鈴のような音が一度だけ響く。

音が消えると同時に、

香の灰がひと粒、ゆっくりと崩れ落ちた。


夜は、再び、何も語らない。


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