Ep.4 猫屋敷鈴の憂鬱
カヤックは中間地点を越えて景色の良いポイントについた。
水面に浮かぶ空の反射が美しい。
水をパドルで掻く音、爽やかな風を受けた動植物の囁きが耳に残る。
自然を感じ、自然を知る。
その言葉の深みを感じさせられる。
カヌー、カヤック体験なんて楽しくないだろうと
思っていた俺だが、自分の力で進む事に達成感もあり
自然に触れられる。考えを改めた。
心が洗われた俺は、
犬飼聖夜に恐れるのではなくちゃんと向き合ってみよう。
そう思った。
「犬飼くん、みんなに変なあだ名つけるのはなんで?」
俺は、初めてビビらずに犬飼聖夜に話しかける事ができた。
「あだ名をつけてるつもりはない。
名前を覚えるのはあんまり得意じゃないから
特徴をそのまま言ってるだけ。」
俺の名前は覚えているのに?と、疑問に思ったが
さすがにそれをツッコめるほど度胸はない。
「いいんじゃない?それも興味の一つだよね
だって全く興味がないなら特徴を捉えられないじゃん」
また、美孤が的確な事を言う。
それも確かではある。
知らず知らずのうちに犬飼聖夜は俺達に興味をもっていた。
そう思えば納得もできる。
「キチ◯イ女には興味ないけど」
「あははー」
美孤は笑っているがだだの罵詈雑言である。
美狐が罵詈雑言を受けても笑っているのは、
美狐自体の性質か、犬飼の言葉に不思議な何かがあるのか。
もちろん前者も当てはまるが、
確かに犬飼聖夜がつけるあだ名は直感の割に的を射ている。
五十嵐先輩の人工芝や二階堂先輩のたわし頭なんかは、
もはや見た目だけのものだが、
それだけで誰の事を言ってるのかわかるほどだ。
カヤックは終着地点に到着し、俺達のカヤック体験は終わった。
このカヤック体験で犬飼聖夜を少し知れた、それだけでも十分な収穫だ。
各々がカヌー・カヤック体験を楽しんだ様子で
親睦も確かに深まったように見えた。
遊びみたいなオリキャンだが体験してみると
次から次とその存在意義がわかってくる。
次は、ワインディング練習。
美容学校らしい事もちゃんとする。
遊びは遊び、練習は練習とメリハリをつけて練習にはいる。
練習風景は今まで美容なんてものに触れてこなかった俺にとって
不思議な光景。
長机にグランプ(生首を机につける道具)をつけ、
ウイッグ(生首)をクランプにつける。
その長机に何体ものウイッグが並ぶ。
普通に生活しているとお目にかかれない光景だが
美容学校に入って早一ヶ月、この光景にも慣れてきた。
猫屋敷はひたすら真面目に練習をしては、
先生や先輩に色々と質問しているが、話のレベルが高くて俺にはついていけない。
犬飼聖夜も実は結構ワインディングがうまい。
淡々と作業をしてるが顔は怖い。
五十嵐先輩と二階堂先輩が俺達に教えて回る。
やりやすい方法や早く巻けるやり方なんかも教えてくれる。
しかもそれがまた綺麗で早く、そしてうまい。
それも当然、オリキャンは成績優秀な人が選ばれるポジションだそうだ。
当然この二人も2年生の中でトップクラスの実力があるのだろう。
しかしそれすらも超越したワインディングの技術を持つ猫屋敷は
やはり異常なのだと改めて実感した。
この練習の時間はおよそ2、3時間。
終わればディナーが待っている!
ディナーは食いしん坊の猫屋敷には嬉しいバイキング形式だ。
これもまた親睦がどうのっていうのが関係しているのかもしれない。
そう思うとすべての事がそういう風に思えてくる。
食事は大人数でする方が楽しい。それもオリキャンでわかったことだ。
今まで学校に行っても、ぼっちで昼ごはん。
家でも、家族全員が揃って食事をとるなんて事もなかった。
専門学校に来てから、数人で食事をとるときはあったが、
ここまでの大人数ではない。
もとより専門学校というところは
社会にでるための修行場といっても過言ではない場所だ。
俺も最近知ったことなのだが、
美容学校では2年のカリキュラムで、
美容師国家試験の受験資格を得ることができる。
そして卒業間際に国家試験を受け、
合格すれば晴れて美容師としてスタート地点に立てる。
またこの2年で、国家試験に合格するための勉強だけではなく、
美容室に入っても多少なり使える人材となるためのカリキュラムを受ける。
この2年という時間は、本来なら少ないくらいなのだろう。
食事が終わると、猫屋敷がそそくさと出て行く。
カヌー、カヤック体験が終わったあたりくらいから
猫屋敷はいつもに増してしかめっ面をしていた。
朝はニヤニヤしてたのに。顔に出やすいやつだな。
体調でも悪いのか?
俺は、猫屋敷の後を追い聞いてみる事にした。
猫屋敷は玄関あたりの椅子に座ってスマホをいじっていた。
相変わらずしかめっ面をしている。
猫屋敷の綺麗で気の強そうな顔が、しかめっ面ではさらに綺麗に感じる。
しかし、なぜそのような顔をしているのか。
話しかけていいのかどうか、悩んでいると
「なに?」
猫屋敷から話しかけてくれた。
「なんか、様子が変だったから気になって」
「あー、そう。気づいてたの...」
そう言って、猫屋敷はため息をついた。
「五十嵐先輩にラインを教えてから、ずっとラインのやり取りを
やらされてるの。最初は技術の話とか興味のある話だったけど
段々、関係のない話ばっかりになってきて、挙げ句の果てに
デートのお誘いがきてるの、正直めんどくさいんだけど
今日、やたらと身体を触ってきたり顔近づけてきたり
キモくて困ってるのよね」
この短時間で、随分と行動派の五十嵐先輩に驚いた。
そこで、猫屋敷がこのたった1日半で受けたセクハラの数々そして
ラインの内容を教えて貰った。
猿渡に言われた事が脳裏をよぎる・・・
「ま、そんな感じ。めんどくさいけど適当にあしらってなんとかする」
そう言って猫屋敷は自室に戻った。
その話を聞いてから、俺はどうするべきか考えた
五十嵐先輩の情報が知りたいと思い、情報を持ってそうな人に
話を聞いてみる事にした。
「ん?五十嵐先輩の事か?」
猿渡だ。
「そうやなぁ、俺は2年に姉ちゃんおるから、そこからの情報にすぎひんからな」
猿渡が姉から聞いた五十嵐先輩の話を聞き、
五十嵐先輩がどういう人間か見えてきた。
五十嵐先輩は、生粋の女たらしで
1年の時から、今まで何人も女をとっかえひっかえしてきたそうだ。
お気に入りの子を見つけては、落とすまで追いかけ回し
付き合ったら、次の人にいく。
猿渡の姉は五十嵐先輩と特別仲がいいわけではないようで
結局得られた情報はこれだけだった。
だが、この話は二年生の間では有名な話みたいだった。
それを聞いて尚更、放っておくわけにもいかなくなったが
果たして俺に何ができるのか。
そもそも、俺ごときが何かをしたところで
猫屋敷にとっていいことなんてなにもないのではないか。
長年にわたる、ぼっち生活とろくに友達もいなかった俺が
その問題を見過ごせないと思うほどまで自分が変わっているのだと
その自らの変化に驚いた。
そんなことを考えているうちに夜は明けた。
今日は合宿最終日である。
また朝から挨拶練習が始まる。
例のごとく先輩たちは大きな声で挨拶をしている。
俺は、五十嵐先輩の動向を探っていた。
五十嵐先輩を観察すると猫屋敷にやたらと話しかけているのがわかる。
猫屋敷は少し迷惑そうに答えて距離をとり、
そして、また五十嵐先輩が距離を詰める。
その繰り返しだ。
その行動を見ていたのは、俺だけではない。
二階堂先輩もまた、五十嵐先輩を見ている。
明らかに怒っている様子で見ていた。
猿渡に聞いた話を思い出す。
五十嵐先輩は今、二階堂先輩と付き合っているといっていたな...
2年の間では五十嵐先輩の女たらしっぷりは、
さほど仲が良くない生徒すら知っているというのに、
それでも付き合っている二階堂先輩はどういう気持ちなんだろう。
挨拶の練習は動向を探るだけで終わってしまった。
二階堂先輩を見ていると、猿渡の言っていた”一波乱”というのが
現実味を増してきた気がした。
次は、ワインディングおよびカットの練習時間。
その時間も手を動かしながらも、また五十嵐先輩を探る。
予想通り、猫屋敷の側からほとんど離れずに猫屋敷に教えている。
猫屋敷は、そんなに教えられるほど下手ではない。
むしろ圧倒的な上手さだ。
猫屋敷が鬱陶しそうにしている。
俺はそっと手を挙げた、五十嵐先輩を呼んでみた。
「五十嵐先輩、ちょっとネイプ(襟足付近の髪)の巻き方を教えてください」
「あー、夢。蛇沼君の見てあげて」
さらっと、二階堂先輩に丸投げした。
あからさますぎるだろ。
結局この時間も、何もできずに終わる。
練習が終わりその後にある先輩たちのヘアーショーまで時間がある。
それまでの時間は自由時間だ。
教室から出る猫屋敷が通りすがりに
「ありがとう」
と一言だけ言ってくれた。
何もできてないのに、そう言ってくれる猫屋敷。
嬉しさよりも悔しさがこみ上げた。
今まで、こんな気持ちになったことがない。
守りたいとか、救いたいとか、そんな大層な事は思わない。
ただ、猫屋敷の悩みを解決してあげたい。
これが、友達を想う気持ちなのかと
俺は生まれて初めて、他人のために何かをしようと思った。
五十嵐先輩に直接話をしてみるか?
俺が出した結論はこうなった。
だが俺のようなヲタクがあんなリア充に
喧嘩を売るようなセリフが言えるのか。
そこで、その道のプロ犬飼聖夜に話してみる事にした。
「犬飼くん、相手にやめてほしい事があった時
なんて言ってやめさせる?」
犬飼聖夜は、いたって普通に
「殴る」
とだけ言った。
なんの解決にもならない上にただの傷害事件である。
普通に退学になるだろ。
別の人に聞いてみる事にした。
栗鼠さんに同じ質問をしてみた。
「私は、そんなにハッキリと言えるタイプじゃないから
参考にならないかもしれないけど、
そのことで、相手にとってどんな不利益があるとか、
相手にわかりやすいように教えればいいんじゃないかな?
相手からやめるように誘導するというか・・・」
犬飼聖夜よりも幾分かマシな回答ではあったが、
単純な話、脅せという事なのだろうか...
どちらも俺にはできない事だが、俺は五十嵐先輩を探した。