椅子
100年以上使われてきている木製の椅子が家にはある。リビングの片隅に佇むその椅子はまるで歴史を語るように重く、凛とした雰囲気を放っている。私はこの椅子が昔から怖かった。私がこの椅子を受け継いだのはつい最近の事。両親が亡くなり、夫と暮らすこの家にそれを置くことになった。暖炉のあった古い実家には、椅子は愛に包まれているように幸せそうだった。人が本を読みながら座り、犬がそこで眠り、暖炉に温まりながら椅子はいろいろなことを考えていた。と、私は感じていた。家具は不思議なもので、使えば使うほど、その個性と私たちの思想が一致してくるのだ。それはまるで生き物のようで、すこし不気味な感覚かもしれないが、きっと息をしている。応答している。私がその椅子に座ると、椅子は少しだけ不満げに軋む。犬がすやすやと眠るころには、椅子は嬉しそうにそれを受け入れた。私は椅子に嫌われているような気がして、受け継がなければいけないと伝えられた時、少しだけ嫌な顔をした。一家の長女であるから、とか、家が広いから、とか、そんな理由で押し付けられただけの椅子が、どうしても行きたいところに行けていないような気がして、もどかしかったのかもしれない。
夫はその椅子に座らない。座ると祟られると思っているのか、歴史ある重い椅子を毛嫌いしている。私もそうしたいが、そうするには椅子が可哀想すぎる。飼い猫はその椅子でよく暴れるし、きっと猫も椅子に嫌われているのだろう。猫もまた椅子を嫌っている。座られなくなった椅子は、だんだんと言葉を失っていくように見えた。見た目の変化はないが、その言葉は内側から出てくるもので、私に訴えかけてきていた言葉は確実に減った。雰囲気も変わった。家が新しくなって居心地が悪い子供のように、椅子は拗ねているのかもしれない。
ある日、私はその椅子に腰かけて、話しかけてみることにした。傍から見ればおかしな行動だけれど、私はそれをする必要があると思った。椅子はまた不機嫌そうに軋んだ。
“最近、使っていなくてごめんなさい。私はあなたが少し怖いの。”
椅子は答えない。昔は心の中で話しかければ、椅子は応えてくれていたような気がするのに。
“私の猫も夫もあなたのことを怖がっているわ。でも決して、嫌いなわけじゃないのよ。ただ、少し怖いの。あなたの存在と、価値と、言葉を失っていく姿が。”
椅子は答えない。当たり前なのかもしれないけれど、私は言葉を続けたい。この椅子には、長い歴史がある。私はこの椅子を簡単に手放したくない。きっとそれには命が宿っていて、少し年取っているから不機嫌なだけなのかもしれない。椅子は静かなまま、リビングの片隅で佇むだけ。私はそんな不満げな椅子に腰かけ、本を読んでみる。ホットミルクを入れて、そっと猫を抱きながら。この椅子に座ると、私は時間の流れが遅くなるように感じる。きっと椅子は、作られた時からゆっくりと息をしながら、時間をゆっくり感じながら生きてきたのだ。
“ごめんなさい、私はきっと、あなたをいつか、好きになるから。子供のころから一緒にいるけれど、話しかけたのは初めてよね。きっとあなたが何かを感じてくれているって信じているわ。”
椅子は少しだけ温かくなった。私の気のせいかもしれないし、体温でやわらかくなっただけかもしれない。いつものように不機嫌に軋むことなく、私の体を包んでくれた。
翌朝、いつものように仕事に出ようと朝食のパンをかじりながら猫に餌をやり、ふとリビングの片隅に目をやる。
椅子はゆっくりと、時間をかけて、その生涯を終えていた。