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向かい泡 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 あなた、最近、シャボン玉を膨らませた記憶ってある? 私、社会人になってからは、すっかり遠ざかっちゃったけど、ついさっき、公園で小さい子がシャボン玉を飛ばしているのを見かけたの。

 シャボン玉のシャボンって、何のことか知ってる? 「石鹸」を意味するスペイン語、もしくはポルトガル語なんですって。石鹸水を使ってあの泡を作っていたから、この名前になったということね。

 とはいえ、日本で石鹸水をシャボン玉に使い始めたのは、明治に入ってからのこと。それまではムクロジの実とかを原料に採用していたとか。

 このシャボン玉。数百年の歴史の間では、不思議な話がいくつも存在したらしいわよ。私もこの間、聞いた話があるんだけど、興味はないかしら?


「玉屋ぁー、玉屋ぁー」。


 天気の良い江戸の街中。日傘を差しながら、底の浅い桶を手にし、練り歩いている人影があった。

 花火の掛け声じゃない。これが江戸におけるシャボン玉売りの呼び込みだった。シャボン玉売りである中年の男は、時々、葦の茎を口にくわえると、その中へ「ぷー」と息を吹き込む。

 たちまち茎の先で、透明な球が膨らみ始める。ところどころに五色の輝きをにじませた玉は、やがて茎を離れてふわふわと空へ昇っていった。それを見た子供たちが、「わあ」と声をあげながら集まってくる。

 売り手だけあって、男の技は見事なものだった。一息で、数えきれないほどの小さな泡を繰り出し、かと思えば、そうっと息を吹き込んでいき、集まった子供たちの、いずれの顔よりも大きい玉を膨らませ、ふわりと浮き上がらせることもできたとか。

 子供たちも、それにならって息を吹き込んでみるけれども、なかなかうまくいかない子が多かった。ふわりと形を整えながら飛び立てるのはまだいい方で、茎から離れず、膨らみ出したとたんにパチンと弾けてしまうものもあったとか。

 思い通りに膨らまず、泣き出してしまう子もいたけれど、シャボン玉売りの男がそれをなぐさめる。


「シャボン玉は、みんなの息を受けて生まれる。いわばみんなの命が吹き込まれたものなのさ。彼らは親である君たちを守るため、生を受けては消えていく。

 それが弾けるのは、彼らが君たちの身代わりになってくれたということ。すぐに割れてしまったということは、危ないことがすぐそばまで迫っていたためなのさ。それを防いでくれたんだから、ものすごくありがたいことなんだよ」

 

 そう聞いても、存分に膨らませられない不満はおさまらず。成功組が満足して帰っていく中、不満組はおこづかいが許す限り、シャボン売りの男のそばから離れようとしなかったの。

 

 悪いことに、やがて風が強く吹き始めてしまう。斜め上から叩きつけるように吹き寄せる風は、せっかく形が整いかけたシャボン玉を、無理やり引きちぎってしまう。

「これが自分たちを不幸から守っているというなら、今すぐ風を止めてよ」と、子供たちはぶうぶう文句を言い出す始末。

 困ったシャボン売りは、また自分の持っていた茎をシャボンの液につけると、今度は口にくわえず、片方の鼻の穴へそうっと差し込んだの。

「玉を大きく膨らませる時の、とっておきだよ」と告げて、茎を差していないもう一つの鼻の穴を外から指先で押さえ、思い切り鼻息を吹き込むシャボン玉売り。


 茎の先へ生まれたシャボン玉は、子供たちのそれと同じく、強く風に煽られて、横へ横へと大きく身体を曲げさせられる。それでも割れるまでに七寸(約21センチ)以上は伸びているように見えたとか。

 子供たちも真似をして、茎を己の鼻へ差し入れてみる。

 加減を間違えてくしゃみをしてしまう子。息を吹き込む時に、鼻水まで一緒に垂らしてしまう子など、いくらかの被害はあったけど、最終的に多くの子供たちが、風の中でもシャボン玉を膨らませることに成功したわ。

 シャボン玉売りほどでなくても、口でやった時よりは、身体を引き延ばすシャボン玉。でも、経緯が経緯だけに、「玉が割れないのは、茎を通して鼻水が混じったからじゃないか?」と、子供たちは考えてしまう。

 汚さを感じ、それとなく解散する流れに。


「忘れちゃいけないよ。玉の膨らみは、君たちの命を守っているということを」


 シャボン玉売りはそう告げて、子供たちを見送った後、風の吹く中をまた「玉屋ぁー、玉屋ぁー」と、声を張り上げつつ去っていったとか。


 その夜のことだった。昼間に鼻へ茎を差すまで、まともに玉を膨らませられなかった男の子のひとりが、ふと目を覚ます。

 自分が寝転がっていたはずの布団がどこにもない。それどころか屋内にいたはずの自分は、寝巻に裸足の格好のまま、いつの間にか自宅の裏庭に、ひとりたたずんでいたの。

 身体を動かそうとするけど、言うことを聞かない。その代わりに、自分の鼻の穴。昼間のシャボン売りに教えられるがまま、茎を差し入れた方の穴から、ぷくりと泡が膨らみ始めてくる。

 鼻ちょうちんだ、と彼は思う。過去に一度だけ、昼寝をしていた時に膨らませたことがあった。

 うつらうつらしていた時、鼻で息をしていたら、吐き出す拍子にぷくりと、小さく姿を現す。もっとも、その時はせいぜい鼻の半分を覆う程度で、その生涯を終えることになってしまったけれど。

 それが今回は、すでに鼻どころか自分の顔の上半分を隠すところまで育ち、なおかつまだ大きくなる構え。昼間は果たせなかった悲願が目の前にあるようで、少しだけ留飲が下がる思いの少年だったけど、安らいだのは束の間のこと。

 縁に、どこか鼻水らしき白い汚れをこびりつけるその泡が、すっかり視界を覆うほどまでになると、今度は少年の足が勝手に浮き上がり始めたんですって。

 身体の自由は相変わらず利かず、抵抗ができない。やがてすっかり足が地面から離れた彼は、自分の家を囲う生け垣よりも高く高く昇っていく。

 

 山の上からしか見下ろしたことがなかった、江戸の街並み。その光源は吉原と、行きかう人々が提げるちょうちん程度しかなく、ほとんどの家はうっすらと輪郭が見えるのがせいぜいだった。

 彼の身体はすでに、そのいずれの建物よりも高く舞っている。鼻ちょうちんはなおも大きくなるばかりか、引力まで帯び始めたらしく、上へ引っ張る力が強くなっていたそうよ。

 おのずと少年の身体はほとんどあおむけになり、満足に手足を動かせないまま、宙をぷかぷかと漂っている。

 

 家屋を置き去りにして、どれほどの時間が経っただろうか。彼は出し抜けに、昼間の自分たちを苦しめた、強い風が吹き始めたのを感じたの。それを受けて鼻ちょうちんが大きく揺れて、肝が冷えたわ。

 もしもシャボン玉のように、この風でちょうちんの身体がちぎれてしまったら、自分は落ち行くしかない。二階の屋根から飛び降りたって、落ちたところが悪ければ死ぬことさえある人の身体。それを優に超える高さを持つこの空で放り出されたら、どんなことになるか……。

 風はほぼ真上から、まるで浮き上がる身体を押し戻すかのように吹いてくる。それに煽られ、形を乱しながらも鼻ちょうちんは割れない。そして浮上する力は、風を跳ね返すようにますます強まり、少年の身体は天高く昇っていく。

 星々がずっと近くなってきた。地上からでも見えていた明るい星たちの周囲に、青、黄、紫と多彩に光りながら瞬く、小さい星々の姿が確認できる。上から吹きつける風は、ますます強くなってきて、身体が凍えるかと思うほど。

 それどころか、「ゴオオ」という耳鳴り。同時に自分が見ていた星のひとつが、にわかに強く、大きく輝き始めたの。他の星の明かりをどんどん塗りつぶしつつ、迫ってくるその図体を前に、彼はもうまともに目を開くことができない。

 いよいよ風圧も増してきて、体ごと吹き飛ばされるかと思わんほど。なのに、先ほどまでの冷たい空気は一気になりを潜め、代わりに焼け付くほどの熱が襲ってくる。ぐんぐんと増す体感の温度に、身体中の皮が溶けてしまうんじゃないかと、彼が思った瞬間。


「パチン」と大きな音が響いた。それと共にまぶたを塞いでいた光、じりじりと身体を焦がさんばかりの熱は消え、代わりに彼の身体は、ゆっくりと下へ引っ張られ始めたの。

 目を開ける。そこには夜空があるだけ。あの猛烈に迫ってきた光源も、膨らみ続けていた鼻ちょうちんもない。視界に映る星々は、暗くて小さい星から順々にその姿を消し始め、見える範囲もどんどん大きくなっていく。彼は墜落を始めていた。

 今度は背中が風を切る番だった。汗でぐっしょりと濡れた寝巻が背骨に張り付き、ひときわ冷えを助長する。身体は、手足をばたつかせられるほどに自由を取り戻していたけれど、それがどれほどの役に立つか。まだ街並みははるか下だけど、地面へ叩きつけられるまで、どれほどの時間があるかも、自分には分からない。


 ――もう一度、鼻ちょうちんだ。


 少年の頭が、とっさに弾き出した考えはそれ。もう、自分を浮き上がらせるほどの力がなくても構わない。自分がやんわりと降り立てるくらい、この勢いを殺してくれれば。

 彼がとったのは、昼間にシャボン玉売りが教えてくれた姿勢。片方の鼻の穴を、外から指でしっかり塞ぐと、彼は思い切り、残った片方へ息を吹き込んだの。その鼻の入り口で、もう一度あぶくが膨らみかけた、そんな感触がすると、意識が遠くなっていく……。


 気が付くと、彼は街外れにある木の枝に、寝巻の帯を引っかけて宙づりになっていたわ。下手に動くと折れてしまうんじゃないかという細さの枝で、彼は通りかかる人に助けを求め、無事に家へ帰り着いたの。

 夜にどこへ行っていたのか。親の追及に対して正直に答えたところ、父親にはこづかれて母親にはあきれられた少年。

 ただ、あの夜に起きていた者の話だと、こちらへぐんぐん迫ってきて、更に大きくなるかと思われた時、唐突に消えてそれっきりの、不思議な星を見かけたとのことよ。


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気に入っていただけたら、他の短編もたくさんございますので、こちらからどうぞ!                                                                                                  近野物語 第三巻
― 新着の感想 ―
[一言] 拝読いたしました。 シャボン玉…今でも時々やってみたくなりますね。 小学2年生くらいのころ、「割れないシャボン玉」が流行っていて、それを持って遊んでいる上級生に、少しだけ触らせてとたのんだら…
[一言] 「玉屋ぁー」からの昔話の入り好きでした。 シャボン玉売りと子ども達とのシーンが、何か良いなと思いました。 あー、ぷかぷか浮き上がっていくところは、映像が想像させられて面白いですね。 高所の恐…
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