第七話 決めるまでの措置
オレは茫然として、言葉を失っていた。
女性が先ほどまでいた場所を睨み、黙り込んでいた黒鳩が、オレを見かねて何かをアドバイスしようと言葉を探していた。
「塔主様、滅びの力があるのじゃとしたら、貴方様が真っ先に登らぬとまずいことが起きますぞ」
精神がこの男は老衰しているのではないのかと、少し親しみのある声で、ふと過ぎった。「まずい、こと?」
「登ってる途中の、美衣といったか? あの小娘と同族の落下はどうなるんじゃろうなァ? 必死で登っているのに、高い高いところまで登っているのに塔が崩れてしまいますぞ? 雲よりも高い場所から落下したらどうなるか判りますまい?」
「……あ……」
そんな場所から落下すれば――死んでしまう。
忠臣の塔は、当主候補全員を殺す罠なのだろうか?
「塔主様、これは己が決断して欲しいから忠告するのではないぞ。今こそ言わせてください、どうかお登りの決断を――」
「……千湖に会いに行く」
「……――まだこれでも登らないと? 塔主様、貴方様がそれはとてもとても臆病でいつも人の影に隠れ、ご兄弟に自らの願いを任せて自分だけは責任を負わないようにと。そんな臆病な生き方の人間だとは知っておるがな。それでは余りにも勇気が無い」
「――何とでも言え、オレは怖いんだ」
オレが睨み付けると、黒鳩は嘆息をついて、指をぱちんと鳴らせば塔の内部にいた。
窓の外を眺めてる千湖がいた。
ぼうっとしていて、お腹をさすっている。鼻歌も歌っていて、機嫌が良いのかなと思ったが、表情を見ていると無表情だった。
無になろうとしている表情だった。何も、表に感情を出したくないという顔。
それでいて、きっと内心は色々と考え込んで、暗い心になっているのではないだろうか。
千湖はオレに気づくと、ぱっと顔を明るくした。
顔を明るくしてオレに近寄る千湖へ、オレは問いかけて良いのか悩んだが、気付いてはいけないと思ったから問わなかった。
自分のことだけで精一杯で、千湖に何かあるのに気付かないふりしたんだ。
「やぁ、どうしたんだい」
「オレの弟が、連れ去られた……白い三つ編みの女に。塔を壊せるから、オレと美衣を救うつもりで。いや、それだけじゃないあいつの願いは刃鐘さんを救う行為だ!」
――本当、どうしてだろう。
千湖の前だと思った通りに言葉がすんなりと出るんだ。
何か懐かしい感情を覚える、高い塔へ不安を感じるのに千湖だけは絶対安心だって泣きそうになるんだ。
――何故か無性に甘えたくなる。優しい優しい暖かな灯りに惹かれるひまわりのように、千湖へ一心に顔を向けて主張したくなる。
もっともっと本音を言わせてくれ、素直な気持ちを言わせてくれ。
千湖なら絶対受け入れてくれるんだ、だからお願い、弱音を許してくれ。
千湖は頭を掻いてから、オレの腰をばしんと叩いた。
「それで? 塔に登るっていうんじゃないだろうな?」
「――まだ決めてない」
「今はそれでいい。周りに流されないでしっかりアンタ自身の願いを持つんだ、アンタだけにしか持てない願いを。アンタが本当に勢いだけで決められないというのなら。でないと、誰かが企んでるかもしれないよ? アンタを塔主にすることで誰が得するか考えてご覧? 他の奴に対してもそうだ、白上のお嬢ちゃんが登って誰が得をするのか、とかな」
「――千湖は心当たりあるの?」
「あたしの意見を聞きたいのかぃ? あるともさ、あのお嬢ちゃんに登らせて得する奴に心当たりが。お嬢ちゃんを騙せるあくどい奴。アンタも見ただろ?」
――美衣が登ると決心した時に、傍にいた男を思い出した。
……そうだった、あいつに唆されて、美衣は登るって決めたんだ!
「いいかい、勢いだけで願うことは罪だと思うんだ。強制的な努力もない願いを、人に押しつける罪。不老不死がそうだろ、そんな願い方や罪を背負ってまで生きたいか? 人の生命を抱える覚悟を背負えるか、今のアンタは? 死ねる体なんだ、大事にしなさいよ。死ぬときに、罪を背負って逝きたいかい? 私ならごめんだね! そんな他人を救う為っていう義務感だけで、背負うなんて!」
「……不思議だな、千湖は。正義はないのかとか、優しくないとか言わないのか?」
「アンタは人に流されやすい子だって、私がいっちばん判ってるンだよ。欲無しのアンタによーく似た奴を知ってるから。この私が……私以上にアンタのこと判る奴ァいないよ! アンタは、絶対に自分から頷くことができない臆病者だ。だけどな――馬鹿じゃない。勢いだけに呑まれる、馬鹿じゃない。若くても、勢いしかない野郎どもと違うのさ」
千湖の言葉はやけに気迫がこもっていて、否定しようものなら怒られそうだ。
だが、やはり――嗚呼、なんて泣きそうなんだ。
余りの理解力に、気安さに、ほっとしてしまった。
「何で……何で、皆そう簡単に上れるんだよ……願いが全部叶うって怖いよ」
「――だから言ってるだろ、他の奴は勢いだけで後先考えない馬鹿だって」
「千湖、それは余りに助言しすぎじゃ。塔主様の意思を決めるのは貴方様のようではないか」
黒鳩が人間姿で階段から上ってきた。ゆっくりとかつんかつんといかついブーツの踵を鳴らして、やってくる姿はまるで青空へ夜闇が迫る来る時の不安さと似ている。
目が合うと胡散臭い笑みで、愛想を浮かべる黒鳩。威圧してくる黒鳩へ千湖が睨みをきかせる。
「黒鳩、お前さんとて口を挟む権利はないさね」
「いえいえ、貴方様の親切が余りにもお節介すぎて、己は心配になったのであるよ。もしかして、塔主様を登らせないのは、彦と千湖が繋がっていて何か悪巧みをしているのではないかと」
「そういうアンタこそどうなんだろうね、白鴉のこと黙っていただろ。あいつが出てくるのはアンタなら判りそうだ、だってあいつは――」
「おいおい。いい気になるなよ、この雌犬。ばらすなら貴様の秘密もばらすぞ」
一瞬で刃物より鋭くて殺意のある眼差しと、乱暴な言葉を、黒鳩は千湖へ向ける。
千湖は小さく怯え、唇をきゅっと固く結ぶ。
千湖が黙ると黒鳩は、爽やかな笑みを浮かべて、千湖の小さな頭を撫でようとした。
咄嗟にオレは千湖を背中に隠して庇う。黒鳩は瞬いてから、とても面白いモノを見たと瞳で笑い訴えていた。
「――嫌われたかの、ま、いいじゃろう。で、塔主様。このままであれば他の人が先に登ってしまいますぞ? 白上の小娘が持つ願いを、永久に叶えられ続けますぞ? もしくは弟君が全員の塔を壊して落下して皆様を殺すか、でしょうかね。どれもが貴方様にとっては嫌悪すべき未来だ」
「……オレは……」
千湖を庇うのをやめて、二人を見比べる。
千湖と黒鳩は対称的な表情を浮かべた。
「まだ決められない」
千湖と黒鳩は対称的な表情を交換したように、浮かべた。
今の千湖は嬉しげで、今の黒鳩はうんざりとしている。
「塔主様、貴方様はそれでは我々を見殺しにすると?」
「おい、やめな黒鳩!」
「だってそうであろう? 役目を果たせないただの亡霊のままでいろということですぞ? ファージストに選ばれたのに、死んだ亡霊のままでいろと仰せになられる。セカンドに選ばれたのに、死んだ亡霊のままで黙って指をくわえて他の奴らが望みを果たすのを、うちの塔主様は願いなさる。我々に死んだままでいろ、と」
「どういう、ことだ」
オレが睨み付けると、黒鳩は首を振って、子供をあやす優しい馬鹿にした声を出す。
塔の窓から風が入ってきてやけに寒い、今度来るときは上着が必要だと思う。
びゅうびゅううと強い風の音が気にならなくなるほど、神経が研ぎ澄まされる。
遠くで歌う、あの彦とかいう敵側の男の歌声も。
「この塔に管理者がいるのは何故だと思います? それも元ファージストや、セカンド」
「チュートリアル?」
「外来語は多くは知りゃあせんけどな、……案内をすれば我々の願いも一つだけ叶うんじゃよ、塔主が登った後に。我々はもう人間じゃない、命を持たない。己など鳩の身でしか生命の悦びを仮初めにしか貰えない。じゃから、我々は願いを一つ決めている、再びこの姿で命を今のまま受け取りたいと」
「私は違うよ、私は――私の子の幸せだ。私の子の幸せだけを願う」
千湖が咄嗟に反応してから、はっとしてオレを気まずそうに見上げた。
「ね、この通り最低一つ希望を抱いている。それを塔主様は見殺しにしなさる」
「……ッだって、登るってことは世界中を不幸にもするのが可能だと、不老不死の行いで判ったんだ。オレがいつも何を考えて生きてると思う? 何も喋らず気持ちが通じ合えばいいのに、だ。コミュニケーションが怖い、だ。そんな願い無意識に叶ったら、今度は誰も喋れなくなって、無音の世界になる。余計に寂しくなる! 素晴らしい歌も聴けなくなる!」
オレは声を荒げて訴える――今まで理不尽に怯えてきた思いを、すべてこの声に載せたつもりだ。威嚇でもあった。
だというのに、黒鳩は子猫でも見つけた生やさしい瞳を向けてくる。
子猫の柔さに、どう対応しようか悩んでいる猛獣のような堂々さだった。
大げさなリアクションで、肩を竦めた。
「塔主様はえらく臆病な――それでいて小賢しい。そのような予測までしてしまうのか。……なる程、確かに貴方は臆病だが馬鹿ではないようだ。宜しい、特別じゃ。我々の願いを一旦置いて、貴方様の願いに沿う対策を練ろうか。要するに……他の方が頂上に着かなければ、誰の願いも叶えられず、刃鐘様だけ願えばいいんですよ」
「……刃鐘さんも助けたい」
「どちらか一つだ。貴方が願うか、あの御方が願うか。我々の妥協点はそれだけ。他の塔の管理人の願いを叶えさせとうない、我々の願いが叶わないならば!」
先ほどの生温い瞳なんかと違って、本気の目はギロリと捕食する者の目だった。
金色の目がぎらりと睨み付けて、オレに「さぁどうする」と問うている。
お前だけ何もかも選ばないなど許さない――と言っているようにも感じた。
黒鳩は思ったより妥協してくれてはいるんだろうっていうのは伝わる。
あんなに妖しい存在だったのに、馬鹿にし続けていたのに、呆れたからか味方になってくれる。
どうしてか判らないから、不自然にも感じるが、諦め故になら納得する。
諦めてるからこそ、他の塔さえ阻止できればいいと。
阻止以外の狙いだとしたら加勢してくれる理由が見つからないが、本当に諦めから加勢してくれるなら心強い。
オレのそんな思いを察したのか、黒鳩は恨めしそうな声で言葉を付け足した。
「今でも悔しいぞ、我が塔主様が登らないのも、君塚家が王にならないのも。でもな、ふと思ったのだ。一番邪魔してやりたい塔があるってことを。もしかしたらそちらのほうが大事かもしれぬ、と」
「誰か知り合いが、塔の管理人にいるのか?」
「うぬ、まぁ関係性は教えたくはないのだが、白鴉の邪魔をしたい。つまらない拘りなのだ、とてもな。あの女はつまらん希望を抱いている。だが、邪魔してやればあいつのつまらない拘りも潰せる――絶望する顔が楽しみだ、とも思ったわけだ」
はーっと深い深い息をついて、蟀谷を黒鳩は押さえた。
すると千湖が大きく噴き出す声が聞こえたのでびくっとして、千湖を見やると爆笑していた。目の端に涙さえ浮かべている。
「こいつぁ傑作だ! 黒鳩、お前さんと気が合うとは思わなかったよ!」
「どの辺が気が合うのじゃ」
「――私も絶望する顔を見るほうが願いを叶えるより、楽しみかもしれない奴がいる。お嬢ちゃんの塔の管理者、白上の娘を唆した奴……彦だ」
にやり、とあくどい顔つきで千湖が笑う。
悪女というより、悪戯めいた顔つきだった。
何処か茶目っ気が窺える、愛嬌ある表情。そんな顔で、美衣の塔を指さす。
あの彦とかいう男の鼻っ柱を折りたいと、期待してにやにやしている姿はガキ大将みたいだ。
黒鳩も千湖が子供みたいだと思ったのは同じで、破顔して何だかリラックスしたようだ。
「……毎度毎度、君塚斉の血の者は不思議だ。余計なことをするくせに、己が安らぐ方法さえも見つけてくれる、意外な発想で」
「あの人もまた臆病だったからねェ遺伝してんじゃないの?」
げらげらと笑い合っていた二人だが、改めて頷いてオレへ顔を向けた。
「本当に――本当に、今は登らないんだね? それなら私もこいつも、もう腹はくくったよ?」
「うん。いずれ登らなきゃいけないんだろうけど……勇気を持って決められない間は邪魔する方向でいきたい。先に進まれても、困る。ファージスト、っていう権限を利用させて貰う。協力してくれるのか?」
「意外と頑固な貴方のことだ、成り行きが楽しみに御座いますよ? 登る決意をする瞬間がどんなときか、と」
「今更何を言うのさ、私らは味方だよ」
千湖が黒鳩と一緒に指輪を一つずつ手に持ち、オレにそっと差し出した。
千湖の指輪にはルビー、黒鳩の指輪にはブラックオニキスがはまっていた。
「この指輪は、私達の存在を意味する。生きているか、否か。いざとなったら、これで確認するんだ。いいかい、指輪が消えても、私らが消えても一人で頑張るんだよ」
「己達は隠密を致します。塔主様には失敗したかどうか、これで確認して頂きたい――他の塔主も、今頃管理人から貰ってるはずだ、登ると決めたなら好都合だからな。じゃが、我々は邪魔する為にこの指輪を預ける。これが己らの貴方様への忠誠であるよ」
指輪――二人の思いを受け取って、オレはそっと指輪を身につける。
二人の心臓の鼓動が、指輪に伝わってる気がする。二人は死者だというのに。
でも、熱い熱い思いや願いが込められている気がして。
「貴方が、我々の王だ」
暖かなリング――二人に消えて欲しくない。二人を見つめても、二人は「消えないから」と約束してくれない。
オレの為に働くと忠誠を誓う姿は嬉しいけれども、切ない。
でも、この思いはオレが唯一この塔に関するものに対して願った形で、二人は叶えようとしている。
オレの塔の正しい在り方なのだろう。
――これは、誓約だ。
オレが登る決意をするまでライバルの塔を蹴落とすという、誓約。
「まずは白上家を観察しに参ろう、地上ではどうなっているか……己もついていきましょうぞ。塔は長時間登り続けるには無理に等しい。飲み物や食べ物がある家に一旦は帰るでしょうな。貴方様にもお金が与えられたのは、生活費というやつであろう。まぁあの混乱した世界で成り立つかは判らぬが。ある程度落ち着いたら有利なのは、金だ。その点では、あの白上の姫が一番厄介かもしれん」
「――美衣が戻ってるなら、光香さんから何か美衣の話が聞けるはずだ。光香さんがもしかしたら何か言うかもしれない」
「……――行ってきな、龍臣」
「うん、行ってくる。また来るよ、千湖」
オレと黒鳩は塔を後にした――隣の塔から、最後に歌が聞こえた。