②
二話で終わる小説の二話目です。
走れるだけ走って、後は駅まで歩こう。恐らく明日は筋肉痛だな。
西岡は白い屋根の下から去ることにした。
一歩踏み出そうとしたとき、何処からか鳴き声が聞こえた。西岡は目を凝らし、辺りを見回してみた。猫がいた。店と店の間の細い路地から、顔だけを出して鳴いていた。
気づいたのは彼だけのようだった。雨の音で話が聞き取れないのか、六人はさっきよりも一塊になって話をしている。
道路を渡ろうとしているのだろうか。猫は正面を見て、アスファルトに打ちつける雨を見ていた。水が溜まってきて、仕事終わりの自動車が水しぶきを上げて今も往来していた。
猫は確り渡りきれるのか。西岡の胸に小さな不安が募った。
注視していると、猫は意外にもくるりと向きを変えて、こちらに向かってスタスタと歩いてきた。雨に打たれ、濡れる地面を跳ねるように近づいてくる。
途中、灯りのついた店を通ったとき、猫は黒くて小柄だということが確認できた。
西岡はもう少し、ここにいることにした。猫が特別好きというわけではない。でもこのまま帰ると、猫が気になってしまう。あの後猫はどうしたのだろう。そう思うなら、今ここで見届けておきたい。それと、猫を間近で見てみたいという興味もあった。
猫は、店の前で止まることもなければ路地に入ることもなかった。白い屋根の下までやってきて、西岡の足元でうろちょろしだした。
西岡は不思議な顔をして、その動きを観察していた。猫の尻尾は長く、クエスチョンマークのような形をしていた。
何かを探しているのかなと思ったが、間もなく猫は西岡の右足の靴の側に座った。
にゃーお、にゃーお。顔を見上げ鳴く猫。西岡の顔が自然に緩んだ。猫の目に吸い込まれるように、脇に鞄を挟み膝を曲げしゃがんだ。
彼の顔を前に、猫はまた鳴いた。よく鳴く猫だなと思いながら、全身を眺めてみた。
猫は顔から尻尾まで汚れていた。自動車が通過したとき、泥水をもろに被ってしまったのかもしれないと想像したりした。
西岡は一旦立ち上がった。鞄を開き中からポケットティッシュ取り出し、五枚ほど勢いよく抜き取った。
駅構内にある、トイレの前に設置された自販機で買ったものだ。一度だけ使って閉まったままになっていた。
西岡は再びしゃがみ、鞄は地べたに置いた。
ティッシュを掴み、猫の顔を優しく押さえた。意外にも猫は嫌がらず、毛に付着した泥水や水滴を拭ってあげた。
身体を拭いていても、猫は逃げようとはしなかった。人なつっこい猫だな。拭いていくうちに、顔だけだが白っぽい毛が目立ってきた。
元々は白猫だったのかもな。流石に身体は汚れが落ちきらず黒っぽいままだが、顔だけ白い猫など西岡は見たことがない。恐らく身体も白いのだろう。白か灰色か、そんな感じの猫を思い浮かべた。
そういえばこの猫、首輪をしていないな。飼い猫じゃないのか。いや、首輪をしていない飼い猫もいるだろうから、一概にはいえないのかもしれない。
拭き終えてからもしゃがんだまま、西岡は黙って猫を見ていた。拭き終わってから、猫は手を舐めたりしていた。
暫くこうしていよう。仕草を眺めているうち、周りの声も、自動車が通り過ぎるのも、雨の音も耳に障ることなく気持ちの落ち着いた時間が流れた。
一人でいる方が気楽だなんて思っていたけど、どうなんだろうな。
毎日一人で仕事をし、一人で休憩し、一人で帰宅し、一人で映画でも見て寝る。
ときに、上司の叱り顔が思い出されて気が滅入る。
仕事が出来ないことから、彼は自ら一人を選んだ。またあの輪に入りたい。それにはやっぱり、頑張りが足りないのかな。
お前はどうだ。誰ともいないときは、どんな気分なんだ。寂しくはないのか。俺の横にちょこんと座っていて、雨が止んだらどうする。誰か集う猫はいるのか。そうだ、恋人はいるのか。
いきなり会って、根掘り葉掘り訊くのは失礼だよな。すまない。
自分は雨が止んだら帰るよ。明日も明後日も仕事があるから。それまで、ここでゆっくりさせてもらうからな。
そこに突然、シャッターがガタガタと音を立てて揺れた。突風か。西岡は気にせず猫を眺めていた。
にゃーお、にゃーお。猫は顔を上向かせ、シャッターの方に向かって鳴いた。ブルブルッとからだを震わせ水滴を飛ばしてから、うろうろと歩き始めた。
風ではないのか。猫の落ち着かない様子から、西岡はしゃがんだまま首を後ろに向けてみた。
地べたとシャッターの間に、手の指が見えた。光が微かに漏れていた。指がスッと上がり、シャッターが荒い音を立てて一気に上まで上がった。西岡は思わず目を細めた。
広い窓が現れ、目映い光が自動車の通る道路にまで届いた。中央で体格のいい男がシャッターを上げ終え、腕を万歳したみたいに上げていた。白いエプロンを着けて、口の回りには髭を蓄えている。
西岡は驚いて立ち上がり、窓の向こうを見ていた。飲食店のようだった。
窓の直ぐ側から焦げ茶色の椅子とテーブルが幾つか設置され、それが奥にまで並んでいた。店の端にはカウンターの席もあった。綺麗な木目調で彩られていて、シックな雰囲気を出していた。
何か煮炊きしているのだろうか。湯気も立ち込めていている。頭にタオルを巻いた若い男が、ピーラーを片手に紫色の皮を剥いていた。
ここは潰れた店ではなかったのだ。西岡は目を見開いて、その情景を見ていた。
一塊になっていた六人、そして猫の目にも店内の明るい景色が映っていた。
シャッターを開けた体格のいい男は、六人をかき分けながら歩いて、店の端にある茶色いドアの前に立っていた。
目線よりやや上に垂れ下がる細長いプレートを、手でくるりとひっくり返した。黒色で書かれたCLOSEの文字が、金色で書かれたOPENへと変わった。
彼はドアを開け、店内に入っていった。カウンターにいる若い男と話をしている。
用が済みドアを開け、また外に出てきた。お辞儀をしながら六人の集団の輪を通り抜け、西岡の方へ歩いてきた。
近づくにつれ、体格の大きさが際立ってくる。口角を上げた表情で、彼の手には、手のひらサイズの丸い皿が載っていた。
西岡の前で、六人のときと同じようにお辞儀をしてきた。西岡も軽く頭を下げた。
にゃーお、にゃーお。
「おうおうサクラ、元気してたか」
体格のいい男はしゃがんで、猫の前に皿を置いた。焼き魚が載っていた。食べやすいように、小さく切り刻まれていた。
「食べろ食べろ、ちゃんと冷ましてきたからな。旨いだろ」
彼の掠れた笑い声が響いた。猫は余程待ち遠しかったのだろう。息つく暇もなく、ムシャムシャと焼き魚を食べている。
雨は弱まってきていた。窓からの灯りによって、降ってきた雨粒が細かいものになっているのが鮮明に見える。白い屋根に当たる雨音も、もう激しくはない。
西岡は、しゃがんでいる体格のいい男の背後に立って、猫の食べる様子を見下ろしていた。
お前は一人じゃないんだな。こうやって、助けてくれる人がいる。幸せじゃないか。今日も食事に有りつけた。よかったな。心で猫の丸い背中に伝えた。
体格のいい男は立ち上がり、皿を舐める猫に声をかけた。
「仕事が一段落したら身体を洗ってやるから、それまでそこいらで遊んでいなさい」
そういって振り向いた。目が合った西岡は、おどおどした目をしてから訊いてみた。
「あの、飼い猫なのですか?」
体格のいい男は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐ目を細くして気さくな声で答えた。
「この界隈に住んでいる常連客ですよ。毎晩来るから可愛くなっちゃってね。今やアイドルみたいなもんです」
「メスなのですね」
体格のいい男は髪を掻いて答える。
「いやあ、それは確認してないからなあ。私がそう思ってるだけ。乙女心っていうんですか、サクラからそんなものが感じられてね。あっ、サクラって名前は私が勝手につけました」
西岡は少し笑って目を遠くに向けた。一塊になっていた六人がこちらを見ていた。揃ってにこやかな表情をしていた。
「親父さん、濡れてっけどいいかな」
頭の薄い中年男が、馴れ馴れしく体格のいい男の背中に向け訊いてきた。
「構わないよ、入って入って」
頭の薄い中年男がドアを開けると、OPENと書かれた細長いプレートがゆらゆら揺れた。
いらっしゃい。おでこにタオルを巻いた若い男の声が、外にまで漏れてきた。張りはあるが、落ち着いた声だった。
中年男を先頭に、六人はぞろぞろと店内へと入っていく。初めてだなあ、という声が聞こえてきた。
西岡はその声を耳にして、六人は話しているうちに意気投合して、呑み会でも開くのかなと思った。
「よかったら、あなたもどうですか?」
一人突っ立って見ている西岡に、親父さんが声をかけ誘ってきた。
「家は魚料理が旨くてね」
そういって親父さんは照れ笑いをして、白いエプロンの上から突き出た腹を撫でた。
西岡は、話していくうちに疑問に思ったことを訊いてみた。
「今からなのですね。他の店に比べると、遅い気がするのですが」
「いやあ。家はね、昼間は食堂をやっているんです。丼ものや定食なんかを出していて一旦店を閉めるんです。で夜には、居酒屋としてまたやってるんですよ」
「なるほど」
居酒屋だったのか。こういうスタイルで営んでいる店もあるのだな。潰れていたというのは、単に店を閉めていただけだったんだ。
「来ませんか、あなたは条件を満たしていますから」
「条件て何ですか」
そこにドアが開く音が聞こえ、親父さんがふいっと振り向いた。おでこに白いタオルを巻いている若い男が、身体を半分だけ出して声を張り上げていってきた。
「おやっさん、これどうしますか?」
何かをドア近くに運んできているようだった。それが何なのかは、西岡のいる位置からは見えなかった。
「ちょっと待て」親父さんは一言いい、白い屋根から通路に出た。手を軽く横に広げ、空を見上げてから答えた。
「いつものように、出しといてくれ
「はい!」
若い男は、歯切れのいい返事をして外に出てきた。立て看板を持っていた。
店の側に設置して、若い男はそそくさとドアを開け店内に戻っていった。
看板には『居酒屋・仲間 本日のオススメはサーモンのカルパッチョ』などと、幾つかのメニューが書かれていた。
何時しか雨が止んでいた。白い屋根からは、雨の滴がポタッポタッと落ちてきていた。
親父さんは屋根の下に戻り、窓の向こうに目をやった。
「あの六人は、みんな一人で来た人たちです」
確かにいわれた通り、一人また一人とやって来て雨宿りをしていた人たちだ。
「条件というのは」
親父さんは、頷いてから答えた。
「ここには一人で来ること。友達や会社の同僚は一緒にいてはいけません。そんな人たちが集うのが、居酒屋仲間です」
店内では、テーブルを動かして六人は互いに向き合って座っていた。西岡はそんな光景を、ぼんやりと眺めていた。
「あの六人は、既に会ったことがあるのですか?」
「いやあ、多分初めてでしょう。店に来たかどうかは名簿を見ればわかりますが、店に来たことはあっても、会ったりするのは恐らく初めてです。そういう意味では、あなたと同じです」
腰に手を当てて話す親父さんの顔を、西岡は不思議な顔で見た。
「会うのは、私も今日が初めてです」
「ははっそうでしょうね。ここでいいたいのは、何かしらの悩みを、あなたと同じように抱えている人たちだということです」
手を叩いて笑い話をしている連中が、悩みなど抱えているとは思えなかった。今だって、頬を緩ませてビールを注いでいるではないか。順風満帆な人たちだ。
「いえ、この人たちと私は境遇が違いますから」
夜空を見上げ西岡は思った。帰り時だな。雨も止んで、雲間から星が一つだけ覗いていた。鞄を脇に抱え、親父さんに断りの礼をしようとしたときだった。
「向こうを見てごらん」
片方の手を広い窓の方へ向け、親父さんは西岡の目を見て静かにいった。
いわれるままに、彼は首を広い窓の方へ向けてみた。ど、どうして。西岡は言葉が出なかった。窓越しから、店内にいる六人から目を離せなかった。
店の中央で、六人がビールを片手に手招きしていた。和気藹々とした雰囲気で、窓の外にいる一人の男に笑顔が向けられていた。その情景は異様に明るく、彼の目に映った。
一月以上前に、同期と呑んだ日と重なった。西岡の目頭が熱くなる。
「話してみたらどうですか。人に話すことで、気持ちがスッと軽くなるかもしれません。本日の相談相手は、あの六人とこの店を営む私たちです」
「いや、でも映画を見たいですから」
「ホントに映画を見たいですか。ホントなら、止めたりはしません。どうぞお帰りください」
西岡は視線を落とした。サクラが食べ終えた丸い皿が、ポツンと置かれていた。
親父さんは、目を伏せている西岡の顔をじっと見ながらいった。
「大なり小なり、悩みは誰にでもあります。そんな悩みを打ち明け励まし合うのが、この店です。どうか、自分に正直に」
西岡はゆっくりと、一歩二歩と足を踏み出した。心のなかにある壁がポロポロと崩れていくのがわかる。そしてそれは、彼の目を濡らす形で表に現れた。
視界に映るぼやけた景色。茶色いドアの前まで来て、立ち止まった。瞬きをしたら睫毛が濡れ、プレートに書かれた金色のOPENの文字が光って見えた。
西岡はドアを開いてなかに入った。
タオルを巻いた若い男が「いらっしゃい」と、穏やかな表情でいってきた。
居酒屋というが、そうとは思えない情調があった。鳥の鳴き声や緑の葉が揺れる風の音がBGMとして流れ、太陽にも似た温もりのある光が彼の身体を包んだ。
親父さんは、サクラの食べ終えた丸い皿を拾い上げた。彼が輪に入り和んでいく姿を、微笑ましい表情で眺めていた。
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