9冊目 今晩に相応しい物語
適当に選んだ物語は、ピンと来ない物でした。しかし悪くもないでしょう。今日の気分に合っていなくとも、その物語自体は本当に素晴らしいものなのですから。
「――――以上、『セレスティーナの匣』にございました。
いつも通り語り終えますと、陛下も鷹揚に拍手をなさいます。それから一つ二つ、質問をして満足げに頷かれました。聞いている様子を見る限り、いつもより集中力がないように思えましたが、話が終わればいつもの彼と変わらない様子でした。
しかし、話が終わり、いくつか言葉を交わした後徐に椅子から立ち上がる陛下ですが、今晩は違います。何故か立ち上がる気配がございません。地に根を張る木のように確固たる意志を持ってこの部屋に留まっているのです。
「陛下、どうかなさいましたか?」
「今夜の話。相変わらずお前の選ぶ話は面白いし、語り口も良い。」
「ふふ、ありがとうございます。」
「だが違う。今日は随分と心ここにあらず、と言った風だな。」
じろり、と今日一日隠されていた赤い目がわたくしを射抜きます。その鋭さに思わず息を飲みました。
怒ってはいません。しかし心当たりがあるなら言え、と。瞳はたいへん雄弁にございました。
「っそんなことは、」
「そうか。」
食い気味に返された言葉。それとともに陛下は乱暴に立ち上がり、わたくしはつい後ずさりました。急に音が遠くなり、激しく鳴る鼓動がひどく耳につきました。がつ、と音をたてて、踵が壁の本棚にぶつかりました。歩み寄ってこられる陛下。もうわたくしは下がることもできません。追い詰められるように、至近距離から陛下を見上げました。天井の明かりが逆光になって、陛下の表情はうかがい知ることはできません。ただ赤い目だけがくっきりと見えました。
「シルフ。お前はわたしに、嘘をつくのか?」
ファーベル陛下は怒ってなどいませんでした。しかし、限りなく無に近い瞳の中に、色濃い失望の色が見えたのです。
「も、うし訳ございませんっ、嘘を、嘘を吐くつもりは、ありませんでした……、」
恐ろしいほどの威圧感の中、いつもの倍くらいのスピードで様々なことを考えました。
わたくしは今晩忘れかけていたのです。陛下がわたくしに構うのは、愉快であるから、です。面白い動きをする、変わったペット。それがわたくしです。しかしわたくしは今小さな嘘をついてやり過ごそうとしました。
それは決して陛下にとって愉快なことではございません。わたくしは今、陛下を失望させてしまったのです。
わたくしの中に圧倒的な恐怖が流れ込みます。失望されてしまいました、わたくしは捨てられてしまうのでしょうか。しかし、もし陛下の先ほどの「心ここにあらず」の理由について、愉快な答えを望んでいるのであれば、今わたくしの考えていること、口から零れる弁明の言葉は逆効果でございます。それくらいはわかっているつもりです。陛下はわたくしという人間を観察する上で、人並みの反応など求められていないのです。失望され、捨てられそうになることを恐怖し、捨てないでくれと懇願する。それはどこまでも人並みで、想像のつくことで、何の面白みもありません。この行動こそ、思考こそが失望する要因となるのです。陛下はそういうお方です。そうとわかっていても、赤い双眸に見下ろされたわたくしはその人並みの思考をやめることはできません。
「では、何を考えていた。いったい何が、お前をそうさせた。」
「……さ、最後のお話し、です。」
「ん?」
「『白雪姫』について、考えておりました……、」
「白雪姫、なあ?」
陛下が口の端を上げて笑ったのが見えました。眼はそらしません。少なくともわたくしは今、嘘をついておりません。ただそれが本質でないというだけで。
失望の色の代わりに興味の色が濃くなり、ほうと密かに息を吐きました。
おそらく陛下は最初からわかっていたのでしょう。弾き語り屋が話しているときからわたくしの様子がおかしいことも、それについて何かわたくしが気にしていることも。一呼吸おいてみれば、今のやり取りもすべてはこのことを円滑に聞き出すためのものだったように思えます。
おもしろそうに陛下は再び椅子に座りました。なんとなく、陛下が望んでいることはわかりました。
「陛下、申し訳ございません。」
「何だ?」
「先ほどの『セレスティーナの匣』今晩に相応しい物語ではございませんでした。」
「ほう、それで?」
「……今晩わたくしが語らせていただくお話は、『シンデレラ』にございます。」
「『シンデレラ』?……弾き語り屋が言っていた話か。」
ピクリと眉が動きます。先ほどと打って変わって愉快そうにわたくしの言葉を聞く陛下は、何事もなかったかのようにいつも通りでございました。
心ここにあらずであった理由を、すべてお話しするつもりはございませんでした。ただ少しだけ、一つの物語に乗せてお伝えしましょう。それは全てではなく一端で、あとは陛下のご想像におまかせいたします。
少なくとも、一度に全てを伝えてしまうよりも、少しずつ小出しにした方が陛下は愉快だと思われるでしょうから。
「ええ、しかしながらわたくしの手元にはメモしかございません。お聞き苦しく、たどたどしい所もございますでしょうが、どうかご容赦ください。」
「ふむ、良いだろう。」
背中を背もたれに預けわたくしをじっと見つめました。わたくしは本棚に戻した冊子を手に取りました。
「これは読んだ物語ではなく、わたくしの友人であった人から語られたお話にございます。」
「……、」
「昔々あるところに、灰かぶりと呼ばれる娘がおりました――――、」
メモをもとに、あの図書館での記憶を呼び起こします。
あるところにいたシンデレラ。美しい働き者の娘。しかし不遇な子で、母と父を亡くし、継母と意地悪な義姉二人とくらしていた。転機となったのはお城での舞踏会。国中から娘を集めて王子の嫁を探しているという。しかしシンデレラは城に着ていくドレスなどなく、美しいドレスを身に纏った義姉たちを見送り留守番をしていた。そんなシンデレラの元に現れたのが、一人の魔法使い。舞踏会に行けず悲しむシンデレラのために魔法使いは汚れた服をドレスに、ネズミを馬に、カボチャを馬車に変え、それからガラスの靴を渡した。しかしその魔法は夜の12時を回ると解けてしまう。それでもシンデレラは喜んでお城の舞踏会へと行った。そしてシンデレラはすぐに王子に見初められ、ずっと王子と踊っていた。しかし12時になり魔法が解けてしまうと気が付いたシンデレラは急いで城を走り去る。追う王子虚しく、残されるのは片方だけのガラスの靴。後日王子はそのガラスの靴と同じサイズの足の娘を探すことで、シンデレラを見つけ出した。こうして不遇のシンデレラは王子と結婚し幸せに暮らした。
確か大筋はこうだったはずです。
「……それは、ラクスボルンに伝わる物語なのか?」
「いいえ、私の知る限り、記されたことはなく、ただ一人の口から聞いたものです」
「……カンナ・ラクスボルンが作った物語か?」
「いいえ、彼女もまた語るだけ。諸説ある物語だとおっしゃっていました」
カンナ様はわたくしに語っただけでした。たくさんの物語を彼女はわたくしに語り聞かせましたが、彼女は一度も、自分で作ったものだとは言いませんでした。彼女は作り手ではございません。しかし彼女はラクスボルン生まれ、ラクスボルン育ちだと言うのに、たくさんのことを、物語を知っていました。どこの書物にもないような、摩訶不思議な物語たちを。
「カンナ様は、わたくしに様々な物語を語ってくださいました。しかし共通する登場人物が出る時、必ず同じ展開になるのです。」
「登場人物?」
「主人公と、悪役です。」
ラクスボルンやダーゲンヘルムにある物語にも、主人公と悪役の登場するものは少なくはありません。それは悪虐な為政者を倒す英雄であったり、高利貸しの質屋と賢い村人であったり、二股をかけた男とその恋人であったりと、いろいろなパターンがございます。しかしその結末はバラバラです。倒されたのち部下にされたり、全うな質屋になったり、恋人とよりを戻したり。ですが、カンナ様のお話しされたものは、違いました。
「カンナ様のお話は、悪役と主人公が出たとき、必ず悪役は殺されてしまうのです。」
カンナ様は言いました。勧善懲悪の物語なのだから当然なのだと。
悪役は死んで当然だと。悪役が死んでしまわなければ、主人公は、ヒロインは安心して幸せになることができない、不安の芽は摘まなくてはならないと。一切の悪が失われなければ、本物のハッピーエンドは訪れないと。
「白雪姫の魔女、継母は焼けた鉄の靴を履かされ踊りながら焼き殺されました。シンデレラの継母と義姉たちは鳩に身体中を啄まれ殺されます。……他の話になりますが、主人公を食べた狼は撃ち殺され、悪さをした鬼は桃から生まれた英雄に殺され、主人公たちをだまして食べようとしたお菓子の家に住む魔女は竈で焼き殺され、それからヒロインの恋敵の意地悪な女は怪物に喰い殺されました。」
悪役は、一欠けらの救いもなく、ただ死んでいきます。主人公の幸せのために。
悪いことをし、罰せられ、そして殺される。ここまでがカンナ様の言う悪役の役割なのです。
「……随分と過激なのだな。」
「ええ、ですが彼女はそういった『物語』を酷く好んでいました。」
自ら、現実世界で『物語』を演じて魅せるほどに。
「ただそれが、少々意外だったのです。」
「意外、そういった物語を好むことがか?」
「言葉足らずでしたね。いえ、それも十分意外だったのですが、そういった話をカンナ様が語ったと他の人に知られていることが、です。彼女は優しい人として知られていました。なので、このような残虐な話をしていてはイメージが崩れてしまうのではないかと……、」
わたくしはつい、ため息交じりの苦笑いをしてしまいました。わたくし自身、白々しいと。
どうしてそんな話をカンナ様がされたのか。それは民衆の間で流行るとわかっていたからです。
可哀想な主人公、ひどい悪役。幸せになる主人公、殺されてしまう悪役。
だって民衆にとっては、つい昨年実際にあったことによく似ているのですから。
彼女はこうとでも言ったのでしょうか?「幼いころに、繰り返し読んだ物語。可哀想な主人公だけど、悪は必ず倒されて、主人公はちゃんと幸せになれる物語が好きだった。」そう言えばきっと周りは、物語に憧れた可愛らしい少女、辛い目に遭ってもくじけない健気な少女だと、彼女のことを見るでしょう。
ああ、こう想像してしまうことが嫌です。かつて大好きだった彼女のことをこうも疑い、勝手な想像をしてしまうことが。恨んでいるわけでも怒っているわけでもありません。ただ諦めと共にやりきれない思いと誰かに知ってもらいたいという思いが湧き出て、混じりあってしまうのです。
「陛下、本日の物語『シンデレラ』はこれでおしまいにございます。」
ここまでで、おしまいです。
シンデレラとカンナ・コピエーネ嬢の物語、この二つの物語こそが今晩わたくしが選ぶべき物語でございました。
嘘はつきません。ただそっと物語の中に隠すだけで。
追求しようとせず、微かに笑みを浮かべて拍手をする彼の方もわかっているでしょう。そして楽しんでもいらっしゃいます。
全てをお話しするとき、それは今ではございません。
しかし遠くない未来、きっとわたくしは全てをお話しするのでしょう。
くだらなく、夢見がちで、馬鹿馬鹿しく、愚かな一つの物語を。