8冊目 物語は祝福にも呪いにもなるのです
わたくしは食い入るように弾き語り屋を見、そして一言一句逃さぬよう耳を傾けておりました。
彼の語る『白雪姫』の物語は、かつてわたくしの友人であったカンナ・コピエーネ嬢が語ってくださったものと、ほとんど全くと言って良いほど、同じでございました。
「継母であった愚かな魔女は鉄の靴を履き踊り狂いながら死んでいった。して、白雪姫は隣国の王子と結婚し幸せに暮らしたという。……これにて語りは終幕です!どうぞこれらの物語、皆々様お心に残るようお祈りいたします!」
始まりと同じく大きく竪琴がかき鳴らされます。それと同時に店内からはまばらな拍手がわきました。見たところ、こういった場での語りに対する拍手はこのようなもののようでしたが、皆一様に最終話として語られた「白雪姫」について隣前後と話し合っております。
弾き語り屋の語りは本当に見事でした。普段わたくしが陛下に語る物語など足元に及ばないと恥ずかしくなるほどでございました。しかしわたくしは最後の最後、「白雪姫」の語りにより、まるで冷や水を掛けられたような感覚を味わったのです。あったはずの興奮は冷まされ、今では微かに燻ぶるほど。それよりもわたくしは「白雪姫」の物語を語った彼に聞きたいことがございました。
「……シルフ?弾き語り屋は好みではなかったか?」
わたくしの様子に気が付いた陛下がすぐに気にかけてくださいます。途端に恥ずかしく、申し訳なく思えてしまいました。動揺を表に出したことも、陛下がわたくしを楽しませようとしてくれているのに、それにうまく応えられなかったことも。
「そんな!弾き語り屋さんはお見事でした。今日見た中でどの分類にも当てはまらないもので、語りも物語も引き込まれるようで、感動いたしました。」
「……シルフ、気になることがあるなら言え。」
嘘は言っておりません。ただ伏せていることがあるだけで。
ですがもちろん、そんなごまかしが陛下に通用するわけもなく、帽子の下から赤い目でじ、と見られてしまえばわたくしは抵抗する術など持ち合わせていないのです。
「……最後のお話が、気になっているのです。」
「最後、『白雪姫』か。変わっていると言えば変わっている話だが、」
「あれ、お嬢さん!『白雪姫』がお気に召しましたか?」
そう大きくない声で話しているつもりでしたが、いつからか聞いていた弾き語り屋がずい、と割り込まみました。しかしこれはおそらく彼自身に聞いた方が話が早いでしょう。
「あの、その最後の話はどこで拾われたものですか?」
「ああ、あれはラクスボルン。ダーゲンヘルムのすぐ隣、森を抜けた先にある国。ダーゲンヘルムよりも文学は盛んではありませんが、ここ最近『白雪姫』などの不思議な話が国内に出回っているようです。」
弾き語り屋の言葉にざわざわと口々にラクスボルンについて囁きあいます。それに気づいた弾き語り屋はより声を大にして言いました。
「実はこの不思議な話、これを広めたのは小説家でも脚本家でも、わたしたちのような語り屋でもないのです!世にも不思議なお伽噺、これを語り出したのはラクスボルンのお姫様、カンナ・コピエーネ様なのです!」
ああ、やはりそうでしたか。ずん、とお腹の底に重い砂袋でも落とされたような気分でございました。
ダーゲンヘルムに来てまで、再び彼女の名を聞くことになるとは。なるほど彼女は、わたくしを国から追い出したのち、殿下ミハイル・ラクスボルン様とご婚約されたようです。彼女の言う通り、ヒロインは幸せになったのでしょう。カンナ様にとって今の世界はスピンオフ、といったところでしょうか。
可愛くて優しくて不遇であった彼女は殿下と結婚し、幸せに浸りながら戯れに物語を落としているようです。
「……ほかに、そのご令嬢はどんなお話しをされていますか?」
上手く動かない顔に笑みを浮かべながら聞きますと、しめたと言わんばかりに弾き語り屋は口を開きます。
「おや、お嬢さんは彼の方の物語をお望みのようです!『白雪姫』のほかに不遇の美女『シンデレラ』、人の言葉を話す蛙『蛙の王様』、入れ替わる妃と侍女『ガチョウ番の女』などなど、まだまだ物語はございます!続きは今宵、月が昇ったころまたこの場所にて!」
それだけ言うと弾き語り屋は店の奥へと引っ込んでいきました。夕方の部はこれでおしまいなのでしょう。独特な弦の音も語り口ももうありません。
「シルフ、そろそろ行くぞ。日が落ちる。」
「……はい、帰りましょうか。」
背中から気安く掛けられる揶揄いに似た言葉にうまく返事をすることもできず、帰路につきました。昼間より幾分か人の減った道は赤い日に照らされ濃い影を地面に伸ばしておりました。行きと同じように陛下はわたくしの前を歩いてくださいます。うまく陛下の顔を見ることのできない今のわたくしにはそれがとてもありがたかったのです。
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あとで来る、とだけおっしゃって城内に戻られたわたくしは、いつもの夜のように塔で陛下がいらっしゃるのを待っておりました。ただ、今日陛下にお話しする本が決まらず、本棚にある本を手にとってはまた戻すという作業を繰り返してばかりでした。今日、相応しい本が見つかりません。
それは昼間見た、文字に落とされない物語の鮮やかさに圧倒された、その余韻のせいでもございました。しかし最後の弾き語り屋の物語のせいでもございました。
ここに来てからも、忘れたくなくて書き留めた冊子がございました。彼女が、カンナ様がわたくしに語ってくださった物語でした。
『白雪姫』『シンデレラ』『ヘンゼルとグレーテル』『ガチョウ番の女』『三匹の子豚』『蛙の王様』『赤ずきん』『いばら姫』それからそれから。裏切られても、嵌められても、それでも彼女の語った物語は間違いようもなく輝いておりました。
わたくしは、今を不幸だとは微塵も思いません。わたくしは幸せです。自由です。とても恵まれています。
しかし未だに心のどこかで彼女に縋っているようで、ただその一点だけが惨めなのです。
美しかった思い出は崩れ去ったはずでございます。偽りの友情であったのだと、思い知らされました。それでも彼女の物語を手元に残しておきたいと思うわたくしは、果たして何なのでございましょう。
グルグルと一人考えると、あの冷たい地下牢にいたことを思い出します。ただただ考える、それ以外に何もすることがなかった、できなかったあの時間は自省をすることでもあり、崩壊を促すことでもありました。わたくし一人だけで考えていると、終着するところはろくなことではない、と思っています。同じことをひたすら考えていると、いつも悪い方悪い方へと思考が流されてしまうのです。しかし、他人に話すようなことでもございません。話すことなど、できません。
わたくしが思い悩むことを話すということはそれまでのこともすべて話さなくてはならないということです。それは他人に話すにはあまりにも重すぎるでしょう。そんなものを他の方に負わせたくはありません。たとえそれで、わたくしの心が少し軽くなるとしても、わたくしの話を聞いてくださった方は何もできることはなく、単に煩悶を抱えるだけなのですから。
もし、もしも彼女がわたくしに与えたものが、物語ではない別の物であれば、これほど思い悩むこともなく、あっさりと記憶ごと捨て去ることができたのでしょうか。
彼女はわたくしに、いくつもの素敵な物語をくださいました。
そして彼女は最後、わたくしに「ヒロインと悪役令嬢」の物語を残しました。わたくし自身を役者とした物語。それは一年たった今も、胸の奥底で燻りながら、まるで呪いのようにわたくしを苛むのです。
カンナ様の語った物語。ヒロインはいつでも救われ、幸せに暮らすのです。しかしわたくしは、お伽噺のヒロインではありませんでした。生まれたことこそが罪、「悪役令嬢」なのでございます。いくら、このダーゲンヘルムで幸せに暮らしても、呪いは誰に知られることもなくわたくしの魂を締め上げ続けているのです。
ヒロインでもない悪役のわたくしに、呪いを解いてくれる王子様は決して来ないのです。
ふと、扉の前から聞こえた足音で意識が一気に浮上いたします。欝々とした思考はそっとしまい込み、わたくしは適当な本を一冊手に取りました。それはそれ、これはこれ。今日一日わたくしを楽しませてくれた陛下に報いるようなお話を、わたくしは語らなくてはなりません。
湿気をまとった陰気な顔は、この穏やかで暖かな時間には不似合いなのですから。