怪物の隣で Ⅴ
本当に、毒気のない。彼女の話を聞いていてそう思った。
悪意とか、企みとかそういったものが全く感じられない。おそらく演技でもなんでもないのだろう。微かに微笑みを浮かべ終始穏やかに語る彼女はどこぞのご令嬢というよりも教会のシスターを彷彿とさせられる。毒気がなく穏やかな箱入り娘というにもどこかおかしさが残る。世間知らず、という言葉は似あわない。何も知らず考えない能天気さもない。だがしかし、地に足がついていない浮世離れした空気を彼女は纏っている。
陛下が気に入ったのはそこかもしれない。彼の持つ異様さとはまたまったく別物の異質さ。例えるなら知識もマナーも持って生まれてきた赤ん坊のようだ。知識はあるのに、何も知らない真っ新な状態。あの人のことだ、そんな彼女を囲うのは楽しくてしょうがないだろう。ただ、怪物が赤ん坊を育てるというところに一抹ではとても済まない不安があるのだが。人間は人から教育を受けて、人になる。人間が怪物に育てられたら、出来上がるのはどんな生き物だろうか。
「お嬢さん、」
「はい、なんでしょう。」
「単刀直入に言わせてもらいますと、俺は貴女という存在が不安です。」
「ええ、」
「お分かりだとは思いますがいくら貴方から話を聞いても、それは貴女が無害であるという証拠にはなりません。少なくとも、俺にとっては。」
俺は彼女が何を言おうと、陛下が、この国中が彼女を信じたとしても、国民として迎え入れたとしても、俺だけは彼女を疑い続ける。それが俺の仕事だ。シルフ・ビーベル。彼女が本当にただの少女だと証明されるときは、きっと彼女の母国たるラクスボルンが潰えるときだ。彼女が情報を持ち帰る場所を失った時、俺はようやく彼女のことを信じられる。
だがそうなるのは一体いつになるだろうか。
「俺は、貴女にこの国から出て行ってもらいたいと思っています。」
「ふふふ、直球ですね。」
「ええ、正直に言わせてもらうと。ラクスボルンに強制送還しても良いし、王都から離れた田舎に移ってもらってもいいと思っています。」
「真っ先に殺処分されると思ったのですが、」
「っまさか!そんなことはできません。」
食い気味に答えた言葉は、陛下のお気に入りを勝手に殺せない、という意味が強かったのか、それとも俺自身すでに誑かされていて否定したのか、それはわからない。それでも、少なくとも話に聞いたような悪女にも殺人未遂をした悪人にも、彼女はとても見えないのだ。彼女を殺せば良心の呵責があるのは確かだ。
「……殺されても良いと、考えてるんですか?」
ふと、そう訊いた。彼女は虚を突かれたように目を丸くしてから少しだけ首を傾げた。
「何と言えば良いのか、わたくしにも怪しいのですが……。わたくしは死ぬときは死ぬ、死なないときは死なないと思っています。」
「それは、どういう……?」
「運命とでもいうのかもしれません。ただ人は、死ぬときはその時に死ぬけれど、死なないときは何が起きても死なないと思っているのです。例えば、明日火事で死ぬという未来がわかったとしましょう。それを避けるために火のない、そうですね湖の近くで一日を過ごしたとしましょう。火事で死ぬことはありません。しかしその日のうちに別の理由で死んでしまうと思うんです。湖で溺れたり、熊に襲われたり……、」
なんとも、不思議な話だった。いくら避けようとしても、死ぬと決まっていれば死ぬ。死なないと決まっていれば死ぬことはない。それが運命だと。悟ったような彼女が何を見て、何を知ってそれを言うのか俺にはわからない。
悟っているのか諦めているのか。
「しかし、それでは報われないでしょう。運命などで片づけられてしまえば、」
「ええ、あくまでもわたくしがそう思っているだけです。レオナルドさんが考え込む必要はありません。……ですが、わたくしにとっての世界はそういうものなのです。」
彼女は言った。
「だってそう考えれば、『もしこうしていたら』なんていうありもしない未来を考えなくてすみます。」
もしも、あのときこうしていれば。過ぎたことに頭を悩ませることは時間の無駄にしかならない。
もしも、陛下が殿下であったとき、あのように声を掛けなければ今の陛下はいなかったかもしれない。
もしも、シルフが本気で妃になりたいと思っていれば今もラクスボルンにいたかもしれない。
もしも、俺が城から抜け出そうとする陛下を止められていればシルフはここに居なかっただろう。
もしも、シルフが音に聞く通りの悪女であれば、こんなにも頭を悩ませることもなかっただろう。
そんなものは考えるだけ無駄だ。
最初から決まっていたんだから。
「いくら考えても、手に入る未来は一つだけです。考えても、考えても、わたくしにできることは与えられた世界に生きることだけです。ですから、もしもわたくしが殺される、と決まったのならわたくしはそれを受け入れるだけです。」
「そんな、」
「それに、わたくしは陛下に拾っていただきました。わたくしの命は陛下のものです。彼にとってわたくしが邪魔になるのなら、害となるのなら、処分されてしかるべきです。」
そう微笑む彼女は、もはや普通でも平凡でもなんでもなかった。
彼女もまた、育てられる間もなく最初から怪物であったのだ。
ひどくあっさりと自身の所有権を手放して見せる彼女は間違いようもなく異様だった。
まるで胸に杭でも打たれたような気分だ。殺してもいい、そう言われれば言われるほどに身体は油を指し忘れたブリキのように動かなくなり、重くなる。なんとなく、陛下の気持ちが分かった気がする。きっと言われれば彼女は自分の所有権以外にもなんでも手放してみせるのだろう。陛下のためと言われれば喜んでさしだしてみせる。だからこそ、だからこそ執着を持たない彼女に何か持たせたくなってしまうのだ。「いりますか?」と命を差し出されてしまうと「大事にしなさい」と押し返したくなる。そんな気分。
「……処分する、予定はありません。できれば陛下の知らないどこかに置いておきたいのですが、貴女は陛下のお気に入りです。おいそれとどこかへ連れて行くことはできません。」
「そうでしたか。ではまだレオナルドさんには心労をかけることになりそうですね。」
やはり申し訳なさそうに眉をハの字にするシルフは、幼い。何もかもを諦めてしまう彼女は一体いつ運命を悟ったのだろうか。
友人に騙され、ダーゲンヘルムの森に罪人として追放されることも運命だったと、諦めていたのだろうか。
運命を享受する彼女にとって、手を伸ばしたくなるほどの幸せはどこにあるのだろうか。
「これは、個人的に。陛下の部下としてではなく、レオナルド・ラフヴァルとして聞きたいのです。」
「なんでしょう。」
「お嬢さんは、陛下に囲われたままで良いのですか?あの人は気に入ったものから手を離すことはありません。何も言われなければ、貴女はあの人の手の中で永遠過ごすことになります。…………お嬢さん、貴女のしたいことは、望む幸福は何ですか?」
彼女は何故か驚いたように先ほどよりも目を見開いた。それからおかしそうにくすくすと笑う。真剣に話しているつもりだったが、どこに笑う要素があっただろうか。
「お嬢さん……?」
「いえ、すいませんつい……陛下と初めてお会いした時、レオナルドさんとよく似たことをおっしゃったんですよ。望みを言ってみろ、と。」
今度は俺が目を丸くする番だった。あの人に、相手の望みを聞いてやるような心の広さがあるとは知らなかった。だいたい、俺と対峙するときは選択肢なんて微塵も与えず、すべて決定事項として伝えられる。辛うじて何かを聞かれるときでも、結局ははいかYESを選べ、といったようなものだ。
「わたくしは今、この上なく幸せなのです。」
「今が、ですか?」
「ええ。ラクスボルンにいたわたくしは死んでいるも同然でした。ダーゲンヘルムに来て、わたくしはやっと人として生きられているのです。……陛下はわたくしになんでもくれます。選択肢をくれました。住むところをくれました。仕事をくれました。この国に住む権利をくれました。生きる希望をくれました。ここに来て、陛下とお会いして、わたくしは初めて一人の人間になれたのです。」
酔っているような恍惚とした雰囲気はなく相変わらず穏やかに話す彼女の様子は至極まともだ。だが内容は盲信と言わずにはいられない。雛が孵り親を見たような刷り込みなど生易しい。彼女の印象は間違いではなかったと気づく。シルフ・ビーベルはシスターのようなものだ。信仰の対象が陛下であるというだけで。
「わたくしは今、この世の幸せを閉じ込めたような場所で、生きています。」
「現状こそが至上、ですか。」
「はい。ですがもちろん、わたくしが邪魔になるのであれば去りましょう。」
「幸せを、手放してもいいと?」
少し、考えるように口を噤んだ。
「……手放したいとは言いません。しかし手放す時がくれば、それは仕方のないことでしょう。」
彼女の視線の先には時計台があった。針は13時に差し掛かろうとしている。正確なスケジュールは把握していないが、休憩時間が終わるのだろう。パニーニの入っていた包みを片付け始める。
「ただわたくしは、できればこうして暮らしていきたいと思っています。」
「……公爵令嬢として生きていたのに、平民として暮らしている方がいいのですか?」
「地位に、興味はありません。煌びやかな生活に、戻りたいとは思えません。……わたくしは陛下が好きです。今の職場の先輩たちも好きです。立ち話をするメイドさんたちも好きです。本も、この国の物語も、平穏な生活も、わたくしは大好きです。わたくし個人の我が儘として、ここに居たいと思っています。ですが、いられないというなれば、それもまた仕方のないことなんです。」
うまくまとめられなくて、すいません。そう言って図書館内に戻っていく彼女の背中を、俺は見送るしかなかった。
どうすることが正解なのか。それはわかり切っている。俺はシルフ・ビーベルを警戒することが正解だ。
正解なのだが、それはどうしても喉の奥に小骨が刺さったような気分の悪さが残るのだ。時間が経つにつれて、彼女は疑いようもない、本当に裏のない人間だというのはわかる。わかるけれど、それでも疑いを俺を捨ててはいけない。
いつになれば純粋に彼女を信じられるか、と言えばラクスボルンが潰えることで間者であるという疑いが晴れる時だ。
もっとも、そんな事態そうそう簡単に起こるわけもない話だが。




