4冊目 『捨て悪役令嬢です。噛まない、吠えない良い子です。拾ってください。』
「————以上、全8話『青鷺の水』にございました。」
「ご苦労!やはりシルフの選ぶ物語はあたりだ。」
鷹揚に拍手をする陛下に充足感を抱きます。部屋の水時計の差す時間は0時直前でした。短編集なので後日に分けても良かったのですが、つながりのある話なので8話まで一気に聞いてほしかったのです。忙しく疲れているだろうに、陛下が舟をこぐことはありません。興味津々に最後まで聞いてくれていると、わたくしはとても嬉しいのです。
「あたり、というよりも、陛下の好みとわたくしの好みが似通っているのだと思いますよ。」
「そうか?」
「ええ、ですのでよろしければ陛下のおすすめの本も教えてくださいませ。」
話しっぱなしで乾いた喉を潤すために紅茶を口に含むと、一瞬陛下の動きが止まるのを視界の端で捉えました。すぐに何か失言したかとも思い自分の言葉をなぞってみますが、それらしいことは何もありません。
いつも自信ありげどころか有り余っているように見える陛下が、何かを言おうかと、やめようかと逡巡しておいででした。思わず目を瞠ります。いつだって明快明確に物をいう彼らしからぬ迷いでした。
「……陛下?」
ティーカップを置き、それとなく発言を促しますと、ちらりと彼はわたくしに目をやりました。その赤い目には微かな不安の色を覗かせておりました。らしくない彼にわたくしも落ち着きを失ってしまいます。ダーゲンヘルム王は今何か大切なことを、きっと重要なことをおっしゃろうとしているのです。
「……シルフ、」
「はい、」
「私は、お前に本を勧めることはできん。物語を語ることや勧めることはできても、本を勧めることはできんのだ。」
「それは、」
「……私は文字が、読めないのだ。」
虚を突かれたように呼吸が止まりました。冗談でしょうか、とも思いましたが彼の様子からしてそれは嘘ではないようでした。そうでなければ、ダーゲンヘルム王が恥じ入るようにそう言うことはないでしょう。一国の敏腕な主で、物語をこよなく愛する陛下が文字を読めない。それは青天の霹靂にございました。
「読めない、というのは、」
「……私には、文が文字の羅列にしか見えんのだ。単語を単語として認識できない。幼いころよりそうだった。何十年勉強しても、上達しない。」
「しかし、執務は普通になさっているのでは……?」
「書類は基本的に部下に読み上げさせている。音にされればわかるのだが、読むのが遅かったり、読み間違いが多いことから、大体は部下についてもらっている。……書くことは読みよりましだ。書く内容はある程度決まっているから、慣れた。だが長文は部下に書いてもらっている。最低限、サインさえできれば、問題ない。」
わたくしにはわからないことでございました。そして信じられないようなことでございました。
言ってしまえば、ダーゲンヘルム王のことをわたくしは完全無欠ともいえる人間だと思っていたのです。彼は優れた人間でございました。的確で明快な指示、行動、満ち溢れた自信とカリスマ性、飴と鞭を使い分けるセンス、国内のことにしっかりとアンテナを張り、国民の声を聞く、そんな方です。
天は二物を与えずと言われます。そうしてありとあらゆるものを持たされたファーベル・ダーゲンヘルム王は、文字というものを奪われたのです。誰よりも文学を愛する人であるというのに。
「……そうですか、お仕事に支障がないのなら、良かったです。」
「シルフ、」
「ではよろしければ、陛下の知っている寓話を教えていただけますか?」
「寓話?」
「ええ、寓話や地域特有の民話は文字に記されていないことが多いです。本にされていなければ、わたくしは知ることができません。特にダーゲンヘルムに根付いたようなことは、どなたかに聞くしか手段がございませんので。」
思えば陛下は、一度だって本が好きと言ったことはなかったのです。彼はいつも物語が好きだと、おっしゃっていました。
しかし、文字に記されない物語というものは存外存在するものでございます。
彼は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をなさいましたが、しばらくして笑い出しました。
「くくっ……ふ、はははははっ!流石だ、シルフ!これだから私はお前が好きなのだ!」
「ありがとうございます。」
「良いだろう、今度は私が何かお前に聞かせてやろう。閉じられた、他国民では知ることのできない、この国の口から口へと伝わる物語だ。」
陛下は部屋が揺れるのではないかという大きな声で笑いました。彼は大切な話をしてくださいました。そしてそれは彼自身によって笑いに、喜びに変えられたのです。
おそらく、これも彼の問いだったのでしょう。
そしてわたくしは奇しくも、二回連続で陛下のお眼鏡に適う解答に成功したのです。
「あの、聞きたいことがあるのですが、」
「ん?何だ?」
「失礼ながら、文字が読めないのであれば、なぜわたくしを拾ったのですか?」
わたくしは檻の中から地面に、枝を使い文字を書きました。善良な誰かがわたくしを拾ってくれることを願って。
至極当然の疑問だったのです。善良な人間でも親切な人間でもないファーベル陛下が、何と書いてあるのかわからなければ、彼はわたくしを拾いはしなかったと思うのです。ただ檻に入れられた女など、物珍しいものですが、彼の好奇心をそそるものではなかったでしょう。
「ははは、確か『捨て悪役令嬢です。噛まない、吠えない良い子です。拾ってください。』だったか?」
「ええ、わたくしは誰かが助けてくれるのを待っておりました。」
「まるで捨て猫や捨て犬のようだったな。あれは面白い。悪くなかった。」
陛下は笑うばかりで質問になかなか答えてくれません。疑問が解消されず、困った顔をしていると、笑いが収まった彼は懐からメモ帳を出した。
「あの晩、私はお前の書いた字が読めなかった。地面に書かれていた、暗かったというのも要因の一つだったが、何かが書いてあるのはわかった。それで気になったのだ。檻の中に入れられた絶望に暮れる娘が、いったい地面に何を書いたのかと。……内容はその場でメモに書き、その後部下に読ませた。」
そうおっしゃってわたくしにメモを差し出しましたそこには「捨て悪役令嬢です。噛まない、吠えない良い子です。拾ってください。」という文字。バランスや感覚、書き順などのせいで違和感はありましたが、読むことができました。おそらく、一つの塊と認識して書いたからでしょう、文ではなく絵のようにも見えました。
「……しかし、今こうやってわたくしが書いた内容を見ると、なんとも言えない気分になります。必死なのか、ふざけているのか……。」
「はははっ、それが良い!それが愉快なのだ。あの状況でもユーモアを失わない。これでもし、単純に『助けてください』とか『死にたくない』とかであれば、適当に放り出していただろう。」
どうやらわたくしの独り言も彼の気に入った回答であったようでした。あの時、諦めながらも一縷の望みにかけて文字を書いたわたくしを褒めたくなります。
「何にせよ、お前は面白い人間だ、シルフ。お前は私を楽しませるのが上手い。」
「陛下も、いつもわたくしを喜ばせるようなことをおっしゃいます。」
「だろうな。お前はとても顔に出やすい。」
いつかのように顎を掴まれました。顔に出やすい、など言われたのは初めてです。貴族生活において、表情が読みやすいと言うのは致命的です。思わず顔を触るとクツクツと笑われました。
しかし、心当たりもあるのです。そもそもラクスボルン王国にいたころ、わたくしは心動かされることがめったにございませんでした。それこそ、本を読んでいるときか、あの断罪されたときくらいです。ですがこのダーゲンヘルムに来て、わたくしは様々なことに胸を躍らせ一喜一憂しているのです。この国には新しく、美しく、素晴らしいもので溢れておりました。
「ここには、この国には素敵なもので満ちています。だから、わたくしは心を動かさずにはいられないのです。」
「……お前はこの国が、ダーゲンヘルムが好きか?」
なぜそのようなことを聞かれるのか、わたくしにはわかりませんでした。
「ええ、わたくしはダーゲンヘルムが大好きです。ここはわたくしにとって幸せな場所ですから。」
陛下は先ほどの大きな笑いとは打って変わって、静かに、しかし満足げに笑われました。
ファーベル……寓話(独)