3冊目 喰い殺された公爵令嬢
高窓から日が降り、部屋を柔らかく照らします。右に本棚、左に本棚。ずらりと壁一面を覆いつくす本の背表紙たち。濃い色彩の物から擦り切れ日に焼けた年代を感じさせるものまで、所狭しと並んでいました。
古くなった書籍リストを新しく書き直したものを手に、わたくしは本を抜き出しました。一つ一つ手に取って検分いたします。汚れてはいないか、破れてはいないか、掠れて読めなくなっている部分はないか。膨大な数の本を確かめていくことは並大抵の作業ではございません。わたくしがここに来て数カ月、この作業を進めていますが、それでもこの書庫の何百分の一もきっと済んではいないでしょう。
わたくしは、ダーゲンヘルム王立図書館の司書の一人になったのです。
あの緊張感の中、わたくしは自らの心の声に耳を傾けました。
心は言いました。お金も地位も、名誉もいらない。わたくしはただ愛する本と共にありたい、と。
わたくしの願いは、ただそれだけにございました。
そしてダーゲンヘルム王、陛下はわたくしの願いを叶えてくださいました。
この国の図書館で働くことが許され、わたくしはここの職員として働いているのです。今まで生まれてこの方労働などしたことがございませんでした。何もかも面倒を見られ、何不自由なく過ごしてまいりました。しかしダーゲンヘルムに来てわたくしは公爵令嬢でもビーベルの娘でもない、ただのシルフとして生きていくことが許されたのです。
軟弱な身体での図書館業務は、わたくしの思っている以上に辛い物でした。想像以上に筋力のいる作業に当初筋肉痛に悩まされておりましたが、最近では慣れてきて心なしか腕が逞しくなってきた気がしています。
働くこと、生活していくことは、とても大変なことです。しかしそれでも、わたくしの最大の幸福が、ここにはありました。
ずっと諦めていました。
公爵令嬢に選択など許されない、平民と同じように働くことはできない、図書館に身を置くことは決してできないと。叶うはずのない、うたかたに消える、夢で終わる夢だと思っていました。しかしラクスボルン王国を追放され、ダーゲンヘルム王国の陛下に拾っていただきました。その瞬間、シルフ・ビーベルは間違いなく陛下に喰い殺されたのです。怪物に殺されたわたくしは、ダーゲンヘルム王国の国民、図書館司書のシルフとして生まれ変わったのです。
「シルフちゃーん!今日はもうあがっていいよー!」
「はーい!切りのいいところで切り上げますー!」
閉館しているときの図書館では大きな声で他の職員の方と話をします。この大きすぎる王立図書館の異なる場所で作業をするわたくしたちの意思の疎通はどうしても大声になるのです。最初はとても驚きましたし、大声なんて出したこともなかったので戸惑いましたが、今ではこういう風に同僚と気兼ねなく、品性や誇り関係なく話をできることがとても楽しいのです。大きく口を開けると、自然と明るい気分になることを、わたくしはここへ来て初めて知りました。心と身体は繋がっているのです。
たくさんの初めてを、ダーゲンヘルム王国へ来て経験しました。
拝啓、ラクスボルン王国の皆様へ。シルフ・ビーベルは死にました。しかしわたくしは貴方がたのおかげで、生まれてこの方味わったことのない充実感、幸福感を味わっています。
最初から、憎しみや恨みはありませんでした。
しかし今では、公爵令嬢という地位から、王子の婚約者という立場から解放されたことへの喜びしかございません。
本当にありがとうございました。
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王国へ来て、わたくしには王城敷地内にある二階建ての塔があてがわられました。もともと書庫として使っていた塔でしたが、わたくしがそこへ住むにあたってベッドやクローゼットなどが運び込まれました。正直、本があるなら石の床でも地べたでもどこでも幸せに過ごすことができるのですが、やはり不便だから、と説き伏せられ、普通の家のようになっています。突然ここに現れた拾われ者にはもったいないほどの処遇にございました。
ぐるりと塔の壁に沿って本棚が並びます。家具を運んでくださった方は圧迫感があって怖いとおっしゃっていましたが、わたくしにとってはとても落ち着く空間でございます。
昼間は王立図書館で本とふれあい、夜は自分の部屋で本を読む、そんな幸せな毎日です。
「邪魔するぞシルフ!」
「へ、陛下!お願いですからノックをしてくださいませ!困ります!」
「私は困らん。」
「でしょうね!」
夜に陛下、ダーゲンヘルム王が訪れることもここに来てからは日常となっています。最初は見張り、もしくは来たばかりのわたくしを慮ってのことだと思っていましたが、数ケ月も続いていることからどうも陛下がここに来たいだけのようすです。
どかりとテーブルの前の椅子に腰かけ満足そうに笑うのもいつものことです。こうしていると最初に陛下と会った日のようですが、わたくしが陛下のことを信頼し、怯えることがないということが決定的な違いです。
「ここでの暮らしにも慣れてきたようだな。言葉が随分お嬢様らしくなくなっている。」
「ええ、やはり図書館でこの口調と言うのは、あまり良くないのではないかと思いまして、少しずつ崩すようにはしています。」
「それでいい。お前はもうしがないただの司書なのだから。」
陛下は、わたくしが本当に喜ぶ言葉を知っていると、会う度に思うのです。
いそいそと紅茶をいれ、それから『今日の本』を持ってわたくしは陛下と向かい合うように椅子に座ります。そしてわたくしが陛下の前のティーカップに紅茶を注ぐのが言葉無き合図なのです。
「今日の本は『青鷺の水』にございます。48年前、ダーゲンヘルムのレオナルド・ハーンによって書かれた短編小説集にございます。」
「ジャンルは?」
「特定のジャンルは持ちません。全8話なのですが、1話から8話まで、緩やかに繋がっていく物語です。」
陛下が口を閉じられて、微かに口角を上げられたら、わたくしは一話目から読み始めます。
陛下への朗読、それがダーゲンヘルム王国へ来てからの日課でございます。
わたくしは昼の間に一冊本を選び、陛下がお越しになったとき、それを音読するのです。なぜ音読させるのか、わたくしは知りません。ですが大好きな本のことで、自分が選んだ本を他の人に語り聞かせることが、苦になるはずもありませんでした。するりするりと口から物語が零れていく。この感覚はとても愛おしい物でした。陛下は決して聞き流すことはありません。黙って話を聞き、聞き終わると感想を言ったり、質問をしたり。間違いなくこの陛下とのやり取りもわたくしの幸福のひとつです。
数カ月ともにいて彼の為人がわかってきました。
彼は決して善人ではありません。王らしい人で、時に冷たい人です。本来ならば、檻に入れられたわたくしなど拾っては来なかったでしょう。
彼は子供のような人です。好奇心旺盛で、面白いことが好き。好奇心のままに行動し、学ぶ方です。彼の冷たさは、子供特有の残虐さにもよく似ています。
それから彼は、物語が大好きです。ダーゲンヘルム王国は鎖国国家ながら様々な文学で溢れております。それは彼が推奨したからでした。街には様々な文化人がいます。小説家、脚本家、絵本作家、吟遊詩人、語り部。その他にも地域ごとに特有の寓話も存在するようです。また、「ダーゲンヘルムの怪物」の話を作ったのは、彼自身だったそうです。鎖国国家、軍事国家であるものの、必要以上に他国と軋轢を生む理由はなく、どうせならおどろおどろしい噂を流しわざと忌避させていたそうなのです。
おそらく、いえ十中八九、もしわたくしの答えた「望み」が「愛する本とともにありたい」ということでなければ、彼は殺しはしないものの、適当に捨て置いたでしょう。あの日答えたわたくしの「望み」は彼の望んでいた正解にうまくはまったのです。