20冊目 蜘蛛の糸
肌寒い地下牢の中、言葉にしがたい気持ちが胸の中を渦巻きました。予想していたようで、予想していなかったお土産です。お土産にされたのはわたくしの件に関し深く関わっている方だとは思っていましたが、張本人だとは思いませんでした。陛下のことですから、真っ先に殺してしまったと思っていたのですが、どうも違ったようです。
キッとわたくしを睨み上げるカンナ様。会うのは、わたくしがラクスボルンの牢に入れられていた時以来です。
「ここで殺されないことを感謝することね。」
「最期に良いお話を教えてあげる。ヒロインの邪魔をする悪役令嬢は、婚約破棄されて、皆の前で断罪されて、それから国外追放されるのよ。」
「さらに詳しく言うとね、ヒロインのカンナ・コピエーネは王子、ミハイル・ラクスボルンと結婚するの。暴虐で高飛車な悪役令嬢シルフ・ビーベルは、隣の国の怪物に食べられるのよ。それがトゥルーエンド。最上のハッピーエンドよ。」
「怪物の住まう国。国外追放にうってつけじゃない。……貴女は役者として最悪だったわ。シナリオ通りに動かない。やたらと私に友好的。予定が狂っちゃったじゃない。でも、貴女がわたしを信用してくれて助かったわ。おかげで最高のラストだったもの。あるはずのなかったシーンだけど、」
「あんたの絶望顔。最っ高に笑えたわ。」
「あんたは存在が罪。罰も必ずついて来る。悪役令嬢として生まれたのが運の尽きね。」
あの日、投げかけられた言葉がフラッシュバックします。無様に裏切られ、絶望するわたくしを、彼女は嗤いました。今、逆の立場になりましたが、笑う気にはなれません。普通の方なら怒るかもしれません。それでもまだわたくしには怒るということは難しそうです。
会いたくなかった、会いたくないと思っていました。しかしこうして再び会うことになり、やはり会いたくはなかったと思わないではいられません。
わたくしは彼女のことを憎んではいません。しかし彼女はわたくしのことを憎んでおいででしょう。
「……アンタ、本当に生きてたのね。」
「カンナ様……、」
「悪役令嬢は、ダーゲンヘルムの怪物に喰い殺されて、それで終わりのはずだった。邪魔な悪役令嬢はいなくなり、ヒロインは幸せに暮らせるはずだった。なのに、なんでアンタが生きてるの。なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないの、ねえ。」
遠い記憶の中の穏やかさも、数年前の見下した余裕の表情も、どちらにも当てはまりませんでした。呪詛を垂れ流すようにじわりじわりと罵る彼女は、暗い目でわたくしを見上げていました。
同情でもなんでもなく、ただ憐れという気持ちがありました。一度は成り上がり、王太子の心を射止め、周囲の人を味方につけ、最上位に君臨していたのに、たった2年ほどでみすぼらしく牢に入っているのです。彼女の成功は一時の、泡沫の夢だったのでしょう。憐憫以外にはなく、掛ける言葉も見つかりませんでした。
陛下が前におっしゃった通り、「悪役令嬢はダーゲンヘルムでずっと幸せに暮らし、ヒロインは”しばらくの間”幸せに暮らしたのだ。」本当に、彼女の幸せは短いものだったのでしょう。
絶句しただ茫然と聞いておりますと、突然陛下が格子を強く蹴りつけました。息を飲む音と共に罵倒が途切れます。
「何を言っている貴様。当然の結果だろう。貴様が加害者で、シルフが被害者だ。自分がしたことをまだ理解していないとは、大層なおつむだな。」
血色の良くなかった顔からさらにザッと血の気が引きます。横で見ているわたくしも、心臓を凍らされたような気持でした。怒っているのか、揶揄しているのかわかりにくい口調ですが、少なくとも、このような陛下を見るのは初めてでした。あの目で見られれば、誰だろうと蛇に睨まれた蛙のようになってしまいます。しかし、陛下はすぐに冷たい表情を引っ込めて、わたくしにいつものように笑いました。
「シルフ、こいつをどうしたい?殺すか?」
「こ、ろ……、」
「お前はこいつに殺されそうになった。殺そうとする奴は、殺される覚悟もなくてはならない。命には命を以て償うべきだ。」
さらに、言葉を失いました。血の気の失せたカンナ様を見て、殺そうなどと思える訳もありません。彼女は見たのでしょう。ラクスボルンの方々が殺されるのを。危険な人物をみんな殺して、そしてカンナ様だけを、わたくしのお土産にするために生かしてダーゲンヘルムに連れてきたのでしょう。
「わ、わたくしは生きています。」
「もし私が通りかからなければ、死んでいた。同じことだ。」
何とかひねり出した言葉はあっさりと切り捨てられます。
恐らく、これが陛下からの質問でしょう。『カンナ・コピエーネの処遇をどうするか』が。なるほど、レオナルドさんが警告するだけはあります。他人の命のかかった質問はラクスボルンの件と同じです。しかし今回はすぐ目の前に見える相手。わたくしの仇ともいえる相手です。
わたくしが殺したい、と言えば陛下は何の躊躇いもなく殺すでしょう。そしてあまりにも甘い判断をわたくしがすれば、きっと人知れず殺すのでしょう。陛下は彼女のことを何とも思っていません。つまらないと思えばあっさりと殺してしまうのでしょう。
「磔にするか?火刑にかけるか?拷問するのも良い、湖に沈めるのもいい。いや、お前の気が済むようにお前自身がこいつの首を切り落としても良い。どうしたい?」
カンナ様はもう口を開きませんでした。
陛下はどうしたい、とわたくしに聞きますですが天秤はすでにカンナ様の死に傾き、方法を考えるところまで来ています。
わたくしにとって、カンナ様はどうでも良い存在です。もう、どうでも良い、会いもしない、口もきかない、だからどうかわたくしの知らないところで、勝手に生きてほしかったのです。どうでも良いのです。だからこそ死んでほしいなどと思えないのです。
わたくしは、カンナ・コピエーネ嬢に生きていてほしいのです。
「……彼女本人の前でする話ではないと思うのです。」
「それで?」
「よろしければ、外でお話ししても良いですか?」
「……いいだろう。」
意外にも外へ出ることを了承してくれてほっと致します。ここに居てはわたくしも思うところがある、カンナ様からの横やりが入る可能性があるほかに、時間稼ぎでもありました。
陛下個人としては、わたくしに手を出したという点では殺したいと思っているでしょう。ですがそれよりも、お土産としてカンナ様を持ち帰った時点で、わたくしがどのような選択をするかという方に意識が向いています。陛下はわたくしの答えに期待しているのです。
怒ることも憎むことのないわたくしが、カンナ様を殺したい、と言えば意外性という点では及第点でしょう。陛下の意思にも沿った結果になります。単純に、殺したくない、生かしておきたいというものは通用しないでしょう。陛下はわたくしが殺したくないと言うことは想像していると思います。ならば普通の答えではわたくしの意見は通らないでしょう。わたくしをそのまま手元に置いた理由と同じく、陛下が面白いと思わなければ、わたくしの希望はあっさりと覆ってしまいます。
陛下の期待に応え、なおかつカンナ様が殺されないでいられるような理由を、考えなくてはなりません。
「何か考え付いたか?」
わたくしの悩んでいることはお見通しとばかりに、機嫌の良い陛下。正解を選ぶことができても、できなくても、わたくしには危険はありません。ただ、一人の人間が殺されるだけで。
彼女は、悪い人です。どう捉えても、善人ではありません。他人の持つものを奪い、周囲の人の目を欺き、わたくしを殺そうとしました。殺されそうになったわたくしが、庇う義理はないと言ってしまえばそれまでです。死ぬのも、知らないところで生きるのも、わたくしの生活には何の影響も及ぼしはしないでしょう。
それでも、一人の命を掬う手立てを残されてしまえば、それを選ばずにはいられません。わたくしは、きっと世に言う偽善者というものなのでしょう。
「……一つ、提案がございます。」
「ほう、早いな!……言ってみろ。」
「わたくしと、陛下、そしてカンナ様で、ゲームをいたしませんか?」
陛下の興味を引くようなこと。
そしてわたくしと陛下とカンナ様の共通点、一つだけございました。