2冊目 ダーゲンヘルムの怪物は問う
寒い森の中、冷たく硬い檻に寝そべっていたはずでした。
しかし今わたくしの身体を包んでいるのは上質な掛布に柔らかなベッドでした。
全て、悪い夢だったのでしょうか。囲まれ浴びせられる罵声も、蔑みの視線も、彼女の裏切りも。今もわたくしは公爵令嬢で、屋敷で寝ているのでしょうか。
しかし目を開ければ、薄暗い見覚えのない部屋でした。
上等な調度品、高い天井、毛足の長い絨毯、着せられた洋服。少なくとも、ここはラクスボルン王国ではないことは理解いたしました。部屋にあるもののどれもがラクスボルンのものではございません。
身体を起こすと、随分と身体が軽いことに気が付きます。もう、首にも、手にも、足にも、なにも付けられてはいませんでした。それどころか包帯がまかれ治療さえされています。
わたくしは、ラクスボルン王国外の善良な人間に拾われたのでございます。
喜びで涙が出そうになりました。わたくしの願いは奇跡的にかなったのです。わたくしは、断罪の鬼に罰せらるることも、ダーゲンヘルムの怪物に食べられることもなかったのです。
わたくしは今、生きています。
どこからか、足音がしてきました。高い天井を持つこの建物は、音を強く反響させるようでした。足音はこちらに向かっております。おそらく、この建物の主なのでしょう。寝起きのまま乱れた服や髪を簡単に整えなんとか見れるようにいたします。
そして、扉が開きました。
「……ほう、目が覚めたか」
「はい、この度は助けていただき、誠にありがとうございました」
「ふん礼には及ばん。面白そうだから拾っただけだ」
若い男性は愉快そうに笑い、置かれていた椅子を引きどかりと座られました。少々粗野な口調でしたが、所作の端々から高貴な身分であることがうかがえます。
「いえ、本当に感謝しています。もしあのままあの森に居れば、わたくしはきっとダーゲンヘルムの怪物に食べられていたことでしょう」
「っく、はははは!ダーゲンヘルムの怪物にか!それは、恐ろしいな」
心底おかしいと笑い飛ばされましたが内心首を傾げます。ダーゲンヘルムの怪物と言えばどの国にも知れ渡っている悪名でございます。その名により、どこの国の誰もダーゲンヘルムには近づかず、忌避しております。なのにこの目の前の男性は一欠けらの恐れも見せず笑いました。ダーゲンヘルムのことを御存じない深窓のご子息なのか、はたまたここがダーゲンヘルムよりはるかに離れた土地なのでしょうか。
「……ははぁ、興味がある。ダーゲンヘルムの怪物とは一体どのようなものなのだ?」
興味津々な彼に戸惑いながらもわたくしは口を開きました。ダーゲンヘルムの怪物は幼いころから聞かされてきた物語のようなものでした。
「暗い森に囲まれたダーゲンヘルム王国は、死にもっとも近い場所。カラスが啼き、狼が走る。入った者は二度と戻ることはございません。そんなダーゲンヘルム王国の王、ダーゲンヘルムは何千年も生き続ける怪物にございます。夜な夜な城から抜け出しては、国に迷い込んだ乙女を喰らうのです。頭の先から足の先まで、臓腑から血の一滴、骨のかけらも余すことなく、ダーゲンヘルム王は喰らい尽くすのです」
「ほう、それで?」
「……ダーゲンヘルム王だけでなく、ダーゲンヘルム王国の王国兵から国民に至るまで、皆悪鬼羅刹にございます。王国兵たちの侵攻はまさに百鬼夜行というに相応しく、ダーゲンヘルムに攻められた国は一欠けの生命もない、黄泉の国の領土となってしまうのです」
「くくくくっ……随分と恐ろしいのだな、そのダーゲンヘルムとやらは」
「ええ、とても」
おどろおどろしい話のはずなのに、男性は聞けば聞くほど楽しそうにしています。彼は彼の怪物が恐ろしくないのでしょうか。それともわたくしの話を冗談半分で聞いていらしているのでしょうか。
「……貴方様は、ダーゲンヘルム王が恐ろしくないのですか?」
「さあて、な。で、そのダーゲンヘルムの怪物、ダーゲンヘルム王はどんな姿をしているのだ。姿がわからなくては、認識しようがないだろう」
「詳しいことはわかりません。ただダーゲンヘルム王は深い闇をでさえも飲み込む暗い髪を持ち、血を硝子に流し込んだような暗い赤い目を持った男だと、わたくしは聞いております」
彼は目を閉じ、顎を撫でなにかを考えているようでございました。しかしその口角は上がっており、まるでどんな悪戯をしようか考えているような、そんな幼子のようにもわたくしには見えました。
「お前、名はなんという」
「申し遅れました。シルフ・ビーベルと申します」
「ビーベル……確かラクスボルンの公爵家ではなかったか?」
「……はい、しかし先日家からは縁を切られたため、わたくしは今、ただのシルフにございます」
「ふうん……、」
徐に彼は立ち上がり、カーテンを引きました。どうやらもう昼頃だったらしく、窓から強い日差しが降り注ぎます。明るい光を見たのは一体いつぶりでしょうか。あまりの眩しさに涙をにじませました。
部屋が明るくなって彼の姿がよく見えます。
「まあお前がどこの何者か、ということはどうでも良い。どのような経緯で縁を切られ森に捨てられたのか、そんなことは些末なことだ」
「……はい、」
「さて話を聞いていて思っていたが、シルフ、お前は賢い。そうだろう?だからお前に楽しいなぞなぞをしてやろう」
「なぞなぞ、でございますか」
彼は笑う、楽し気に。彼の言うなぞなぞが何なのか、なんとなく緊張が走りました。絶対に間違えてはいけない問いなのでしょう。
「ダーゲンヘルム王の姿を頭に思い浮かべろ。暗い髪に、赤い目をした男だ」
「ええ、」
「では問題だ。今お前の前にいる私。いったいどんな姿をしている?」
「……っ!!」
息を飲みました。日がさして部屋の温度は上がっているはずなのに、わたくしの体温は急激に降下しております。身体の中に冷水を流し込まれたような気分でした。
わたくしを助けてくれた、ラクスボルン王国以外の善良な方は、深い黒の髪をもち、明るい赤色の目を細めてこちらを見据えておりました。
わたくしは愚かでありましたが、そんなわたくしでも理解できます。
「ダーゲン、ヘルム王……!」
「良い子!大正解だぁっ!!はっはははははは!」
こみ上げる笑いを抑えられないとでも言う風に大きな口を開けて笑う彼に対し、わたくしもまた開いた口を閉じることができませんでした。
機嫌よく彼は窓から離れ再び椅子に座ります。
「随分とおもしろい話を聞かせてもらった。素晴らしかったぞ」
「あ……、」
ダーゲンヘルムの怪物。わたくしは本人を前に、語ってしまったのです。
「お前の考えている通り、私こそダーゲンヘルムの怪物、第28代国王ファーベル・ダーゲンヘルムだ。ようこそ、怪物の住まう黄泉の国、ダーゲンヘルムへ」
口元が愉快そうに弧を描きます。足を組みわたくしの方へ視線をよこす彼はまた何か考えあぐねるように顎を撫でました。また緊張感が走ります。
次に彼はきっと言うのでしょう。わたくしを喰らうと。これまでの会話はきっと余興の一つで、遊び終わったならば何の感慨もなくわたくしを喰らうのです。わたくしのいた痕跡を、何一つ残さないままに。
「シルフ、来い」
「はい……、」
大声というわけではありませんでしたが、それは決して逆らってはいけない、従わないという意思を放棄させるような強い色がございました。フラフラとおぼつかない足取りで、わたくしはダーゲンヘルム王の前に膝を突きました。
ニヤリと笑い彼はわたくしの顎を片手で掴み上げました。否が応にもあの赤い目と視線が合わさります。
「さあて、質問だシルフ・ビーベル改め、シルフ。お前は今、決して嘘をついてはならない。混じりなき本心で、答えよ」
「は、い……、」
「お前の、望みはなんだ」
「のぞ、み……?」
「そうだ、望みだ。お前が今何よりも、心から望み欲するものを言ってみろ」
金か、名誉か、地位か、国へ帰ることか、愛か、食べ物か、眠りか、生きることか、死ぬことか、誰かを呪うことか、復讐することか、自由か。
「お前の望みを言ってみろ」
何もかもを見透かす赤い目に、思考することも許されぬような気がいたしました。
考えることも、策を弄することもなく、ただ自身の心に耳を傾け、望みを聞くようでした。
「わたくしの、望みは……、」
それを告げた後、ダーゲンヘルムの怪物、ファーベル・ダーゲンヘルムは驚いたような表情を浮かべたのち、会ってから一番の笑顔を見せられました。
「面白い!お前は本当に面白いぞシルフ!良いだろう!お前の望み、このダーゲンヘルムの怪物が叶えよう!!」
彼の怪物は高らかにそうおっしゃいました。