18冊目 帰還の足音
陛下から不穏なお話を聞いてから、もう三カ月ほどたちました。しかしダーゲンヘルムはいつもとなんら変わりません。相変わらず人々は物語を愛で、楽しく穏やかに過ごしています。変わったことと言えば、陛下がわたくしの住む塔にいらっしゃらなくなったことでしょう。初めの二カ月ほどは一応城にはいらっしゃったようでしたが、今は城を離れているようです。一介の平民でしかないわたくしが、陛下の行き先を知ることはありません。本来であれば、ダーゲンヘルムとラクスボルンで戦争になる可能性があることも知らせられはしなかったでしょう。しかしその原因はわたくしが一端を担っていると言ってもいい事案。ああ、おっしゃられたからには、ラクスボルンに対し何もしないということはないでしょう。ただあの方は、極力わたくしにお知らせにはならないでしょう。少なくとも、戦のことなどわたくしに話されても何もできることはできませんし、何も意見することはできないのですから。
わたくしの生きてきたラクスボルンは平和そのもので、戦争など味わったこともございません。ただ知識として、戦争とは何もかも失い、得られるものは悲しみと恨みだけと知覚しておりました。今更ながら、本当にわたくしはラクスボルンに戻らなくて良かったのか、と思わないではいられません。陛下はわたくしのしたいように、望みを尋ねられました。そしてわたくしはダーゲンヘルムに残りたいと申しました。しかし、わたくしのこのわがままで戦争になったとしたら、それはどれほど恐ろしいことでしょう。わたくしのわがまま一つで、何百何千という無関係な人間が傷つき、死んでしまうのかもしれないのです。それは客観的に見てわたくしにひどい仕打ちをしたラクスボルンの人間だけでなく、ダーゲンヘルムの方々まで。息ができなくなるほどの自責と不安を抱えながら、日々を過ごしておりました。しかしわたくしの予想に反し、拍子抜けするほどにどこからも戦火の匂いなどいたしませんでした。
もしかしたら何か、交渉など平和的手段を陛下がお取りになったのではないかと思っていたころ、陛下と同じくしばらくお姿を見ていなかった王の側近であるレオナルドさんの姿を城内でお見かけしたのです。
慌ただしく歩き回る彼を呼び止めるのは申し訳ないのですが、どうしても、ことを聞かずにはいられませんでした。
「レオナルドさん、お聞きしたいことがあるのですが、」
「ああっお嬢さん。お久しぶりです。バタバタしててすみません。」
「いえっ、こちらこそお忙しいのに呼び止めてしまい申し訳ありません。」
一介の平民どころかこの城の居候でしかない難民のわたくしに、レオナルドさんは敬語を使います。それはわたくしが陛下のお気に入りで陛下が拾ってきたものだからですが、わたくしからすれば敬語を使ってもらうことも申し訳なく思います。たいしてレオナルドさんも敬語を外すのは恐れ多いと、話をするとお互いにかっちりとした敬語になってしまいます。陛下には苦笑されてしまいましたが、変えられはしないでしょう。
「陛下のことでしたら、数日後にはお帰りになられますよ。」
「っそれは、」
「ええ、ことは済み、すべて片付きました。」
ニコリと笑ってそうおっしゃるレオナルドさん。片付いたということはそのままの意味。ラクスボルンの一件はすべて収められたということでしょう。
何よりも先に、ああ良かった、と思ってしまったわたくしはやはりダーゲンヘルムへ来る前と全く変わったと自覚せざるを得ません。ダーゲンヘルムの被害はほとんどなく、ラクスボルンとの一件はひそやかに片づけられたのです
「詳しいことはまだ言えませんので、陛下から聞いてください。」
「ファーベル陛下はいつお帰りですか?」
「あと数日のうちには。貴女にも用があるので、改めてお呼びすると思いますが、その……、」
「レオナルドさん?」
ハキハキとした彼に珍しく、言いにくそうに視線を彷徨わせました。ただならぬその様子に去ったはずの不安が舞い戻ってきます。
「も、もしかして陛下はどこかお怪我を……!?」
「あっ、いえいえいえ!あの方は元気も元気、ピンシャンしてらっしゃいます!元気過ぎるくらいです。」
その言葉にほっと胸を撫でおろしました。あの方がわたくしのためにしてくれているとは思ってはいません。それでも、わたくしを拾わなければ傷つくことのなかった傷を陛下に負ってほしくはないのです。しかし、それならばなおさらレオナルドさんが言い淀む理由がわかりません。すべてが済んだのであればひとまず安心でしょう。わたくしのせいでラクスボルンが滅んでしまったことについて気に病んでいると思われているとしたらそれは間違いです。わたくしはラクスボルンに捨てられました。しかし先日わたくしはラクスボルンを捨てたのです。国を亡ぼす覚悟も、わたくしの過去の全ても葬り去る覚悟は十分しています。
フォローを入れるべきかと悶々としておりますと、レオナルドさんは決意したように、わたくしをしっかりと見据えて口を開きました。
「その、気を確かに持ってください、お嬢さん。」
「へ?」
「陛下は貴女にとって大変衝撃的な、ショッキングなことをお話しし、非常に迷惑な土産を持ってダーゲンヘルムに帰還されるおつもりです。」
「お、お土産ですか……、」
「はい。……あの方はまた何か企んでおいでです。突拍子もないことをされるでしょう。陛下は貴女を溺愛していらっしゃいますが、同時に貴女へ過度ともいえる期待をしています。」
「あ、あー、はい。……なんとなく、想像がつきます。」
陛下はきっとラクスボルンで玩具、もとい何か興味深いものを見つけられたのでしょう。そしてそれをわたくしに持って帰って来られると。捕まえた鳥を咥えて飼い主のところへ持って見せびらかしに来る猫そのもの。もっとも、持って帰ってくるものはわたくしの予想をきっと上回るものでしょうし、崩した国で見つけた玩具は鳥の死骸などよりも、言葉を選ばずに言うなればろくでもない物でしょう。
そしてきっとまた陛下はお土産を持ってわたくしに何かを尋ねるのでしょう。まるで試すように。いえ、事実試すのでしょう。お土産はおそらくわたくしに関係するもので、レオナルドさんが軽々しく口にできない物。そしてわたくしはそれについてまた深く悩み考えを巡らせなくてはならないのでしょう。
陛下がわたくしに寄こすものは『質問』と『手押し車』です。そして今回は『質問』なのでしょう。
「俺が言うことでもないかもしれませんが、本当、うちの陛下がご迷惑を……、」
「いえそんな!あの方は気まぐれな方であるのは確かですが、わたくしはその気まぐれと好奇心によって命を救われたのです。陛下のそういった傾向については重々承知しておりますし、感謝もしてます。わたくしは陛下に何も返すことができません。せめてあの方の質問に対し、ご期待に応えられるような返事をしてみせます。」
気合というか、決意というかそう言う物が表に出ていたのでしょう、レオナルドさんは微妙なお顔をされていました。つい熱く語ってしまったことが恥ずかしく顔に熱が集まるのを感じますが、それが事実です。側近の彼は振り回されてばかりでしょうが、その気まぐれでわたくしは何度も救われています。感謝こそすれ、迷惑とすることはないでしょう。
「……今回のことについて、陛下が貴女にする質問の想像はついています。」
「レオナルドさんがですか?」
「ええ。こう言ってはなんですが、あの人は人格が捻じれて拗れて崩壊寸前の状態の性悪です。正直なところ陛下は貴女に酷なことをさせると思います。特に今回は。」
真剣におっしゃるその顔はわたくしのことを真摯に案じてくださっていました。いつものことだと思ってたかを括っていましたが、もしかしたらそうも言っていられないお土産なのかもしれません。
あの方は普通の方ではありません。この世に類を見ないほどに変わったお方です。言ってしまえば、非常に複雑に歪んだ心を持っておいでです。
「なので今回、貴女は陛下の望む答えを探さなくて結構です。どうすれば陛下が喜ばれるか、機嫌を損ねられるか、お嬢さんならきっともうわかるでしょう。それでも、顔色を窺う必要はありません。貴女が望むままを答えてください。陛下は御咎めにはなりません。多少何かおっしゃるかもしれませんが、ささやかな良心が働いていれば貴女の望むままにしてくれるでしょう。」
得体の知れない緊張感が鳩尾のあたりで生まれました。質問であり、望み。それはきっとラクスボルンにわたくしが戻るかどうか聞いたときのものと同質のものでしょう。陛下はいつもわたくしに答えを強制することはありません。あくまでもわたくしの望みを優先してくださいます。それとなく匂わせたり、表情に出したり、誘導することはございますが。しかし、そのうえでレオナルドさんがここまで念押ししてくる、と言うことはきっと何かあるのでしょう。レオナルドさんはわたくしなんかよりずっと陛下のことを知っておいでです。話に聞くところ、幼少期から御側にいたそうで、為人で彼が知らないことはないのではないでしょうか。そんな彼が、ここまで警告するようなお土産と、それに伴う質問。果たしてどれほど凄まじい拾いものを彼はしてくるのでしょうか。
「……望みどおりにならなかったら、どうしましょう。」
「俺を呼んでください。必ず止めますから。貴女へ土産を持って帰ること自体暴挙の暴挙なんです。少しは自重を覚えていただかなくてはいけません。」
「止めるって、レオナルドさんは大丈夫なんですか?」
「僭越ながら、俺は陛下に気に入られてますし、一応右腕です。それにいざとなればお気に入りのお嬢さんが俺を庇ってくれれば問題ないでしょう。」
真面目な顔を崩して少しだけ笑うレオナルドさんに少しだけ安心し肩の力が抜けました。彼がそう言うならそうなのでしょう。途端に何とかなる気がしてきました。
レオナルドさんはまるで兄のようです。
もちろん、ラクスボルンに置いてきたお兄様とは似ても似つきません。でも世間一般の人が描くような家族の『兄』という人はきっとこういう方だと思うのです。優しくて、気にかけてくれて、頼りになる、そんな方です。
「あの、お呼び止めしてしまってすみません。」
「あっ!ええ、大丈夫です。少々しばらく城内が落ち着かないかもしれませんが、事後処理に追われているだけなので心配いりませんよ。……それでは、俺もそろそろ失礼します。」
「はい、ありがとうございました。久しぶりにお話しできてうれしかったです。」
思ったままに口にするとレオナルドさんは目をまるくしてからさっきよりも豪快に笑いました。
「何だか先に帰ってきてお嬢さんと話した上にそんな嬉しいこと言われては、陛下に怒られてしまいそうです。」
「これくらいではお怒りにはなりませんよ?」
「いえいえ、適当に見えて特定の人、物に対する執着心は凄まじい物ですから。」
含み笑いをしながら再び業務に戻るレオナルドさんの背を見送りながら、わたくしは彼の言葉を反芻しておりました。ことがすべて済み、何もかもが終わったらしいことはわかりました。わたくしは誰からの咎めも受けずダーゲンヘルム王国民だと名乗って良いのです。ただわたくしには、まだ悩み覚悟しなくてはならないことがあるようです。
微かな解放された晴れやかさ、暗澹たる心を覆う不安、そして陛下が無事に戻られると言う浮き足立った気持ちに、落ち着けるように深く息を吸い込みました。
陛下がお戻りになったのはそれから三日後のことでした。
丁度図書館が休館日で、司書としての仕事の無い午後。すでに着替え終えたのでしょう、いつもと何も変わらない服装で塔を訪れました。
いつもと違う、三か月前と違うことは、訪れたのが昼間であること、隠しきれない好奇心や興奮が伝わること、そして塔でわたくしが物語を語らないことでした。
陛下はわたくしを、自ら王城の中へと誘いました。