13冊目 確かに捨て去る覚悟
「陛下、」
「なんだ?」
「今夜お話しする物語が決まりました。」
「……今晩は良いと言っただろう。」
怪訝そうな顔をなさる陛下ですが、聞いていただかなくてはならないお話なのです。なぜ必要なのか、そう聞かれますとはっきりとした応えはできません。しかしわたくしは必要だと思うのです。
わたくしがラクスボルン王国を捨て、ダーゲンヘルム王国のシルフとして生きるために。
「いえ、是非話させてください。これは、とある馬鹿馬鹿しく、愚かしい公爵令嬢のお話し」
愛した友人に裏切られ、何もかもを奪われ打ち捨てられた、愚陋な娘の話。
「『捨て悪役令嬢』の物語でございます。」
役者として踊らされた愚かな娘、公爵令嬢シルフ・ビーベル自ら語らせていただきます。
あるところに、ラクスボルンという王国がございました。緑に恵まれ農業が盛ん、大きくはない強くはない国でしたが、他国との交易も多く豊かで平和な国でございました。
そんな国の公爵家、ビーベル家には息子一人娘一人がおりました。娘の名はシルフ・ビーベルといいました。
幼いころから何ら苦労したことなく、食べる物着る物一級品で揃えられ、そしてそれに対して何の疑いもなく享受していました。彼女自身、平和に幸せに暮らしておりました。彼女にとって、人生とは何もしようとしなければひどく楽なものだと思っていました。シルフ・ビーベルの人生は全て親が、周りがレールを敷いてくださいます。彼女はただそれを歩くだけ。それを歩くだけで幸せになれると知っていました。それを歩くだけで周りも幸せになれると。迷うこともない、選択を迫られることもない、楽で幸せなものでした。川を流される木の葉のようにただただ周りに流される。何もしなければ、平和に生き、死んでいけると確信しておりました。
選択肢を持たない彼女は基本的に何も好きではなく、何も嫌いではございませんでした。それでもただ一つ、唯一欲しいと思えるもの、楽しいと思えるものがございました。
それが本です。
表紙を開くだけで、どこにも行くことのできない臆病な自分を、見知らぬ世界へと連れて行ってくれるそれはまさに夢のようなものでございました。本を読んでいる間は現実を忘れ、ただただ没頭できると。
欲しいと声を上げる力も勇気もなかった彼女は、こっそりと王立図書館に通っていました。もちろん、誰にもバレないよう平民を装い、偽名を使い。図書館にいる間だけ、シルフ・ビーベルはただの本が好きな少女でいられました。
そのうち、同じ年頃の王子、ミハイル・ラクスボルンとの婚約の話が浮上致しました。国の爵位と娘を持つ家々は皆浮き足立ち、我が娘こそ王子の支えになるのが相応しいと推しました。それは王家の血筋の公爵家ももちろん例外ではなく、シルフ・ビーベルに婚約者として、妃としての教育が本格的に始まりました。彼女にとってそれは苦ではありませんでした。王子と結婚することなど、幼いころから耳にタコができるほど聞いていたのですから、それらの教育も当然のものとして享受しておりました。もともと学ぶことが嫌なわけではありません。強いていうなれば、図書館を訪れる時間が減ってしまうことくらいです。
そんな義務と責任だけを背負った生活の中でした。通い詰めていた図書館でとある少女に出会ったのは。
気安い方でした。気さくな方でした。
少女の名はカンナ・コピエーネと言いました。生まれは平民ですが父親が爵位を賜り男爵となった令嬢でした。その生まれからでしょうか、カンナ嬢は不思議な空気を身に纏い、周囲の人を魅了しておりました。それはシルフ・ビーベルも例外ではございませんでした。
それだけではなく、カンナ嬢はシルフ・ビーベルに様々な物語を語ってくれました。『シンデレラ』『白雪姫』『千夜一夜物語』『竹取物語』挙げるのもきりがないほど、カンナ嬢はたくさんの物語を知っていました。生まれも育ちもラクスボルン王国であるはずの彼女は不自然なほどに、異国の物語だろうものたちを知っていました。不自然だと思いつつも、コピエーネ家は貿易商です、異国の物に触れる機会も多いのだろうとシルフ・ビーベルは思っていました。実際のところは、わかりませんが。
しばらくして、シルフ・ビーベルは正式にミハイルラクスボルン、王子と婚約することが決まりました。両親はとても喜び、娘を褒めそやしました。シルフ・ビーベルもまた、決められたレール通りに事が進み安堵しながらも、光栄なことだと喜んでおりました。
それからどれほどでしょう、カンナ・コピエーネが王立学園に編入してまいりました。爵位持ちの令嬢に相応しい教育を、と平民の学校から変えられたようでした。シルフ・ビーベルは不安でした。身分を隠して交友をしてきた彼女。公爵令嬢と知れたら今まで通りの付き合いができないのではないかと。
しかしそれは杞憂に終わりました。カンナ嬢は何も態度は変えたりはしませんでした。婚約者であるミハイル王子とも仲が良かったようでしたが、シルフ・ビーベルはむしろそれを喜びました。
シルフ・ビーベルの平坦に平和だった生活は、カンナ・コピエーネによって俄かに色づきました。
ですが終わりも一瞬でした。
王子をカンナ嬢が構うため、シルフ・ビーベルは空いた時間を図書館で過ごしていました。公爵令嬢にあるべき緊張感を失っていたのです。
気が付いたときには、公爵令嬢シルフ・ビーベルの居場所はなくなっていました。
全ては一人の少女、友人であったはずのカンナ・コピエーネにより。
王子から婚約を破棄され、周囲から白い眼を向けられ、家族からも縁を切られました。
敷かれたレールを、何の文句を言わずに歩いてきました。何もしなければ落ちることのないレール。もしシルフ・ビーベルが本に、物語に現を抜かさず、意思を持ってレールを歩いていたなら結果は変わっていたのでしょうか。それはもう誰にもわかりません。
カンナ嬢は愚かな公爵令嬢を嗤いました。
「ヒロインの邪魔をする悪役は死んでいく。」
そう嗤いました。
鎖に繋がれ、格子越しにシルフ・ビーベルを見下ろしながら、カンナ・コピエーネは語りました。まるで何も知らない無知な幼子に物語を聞かせるように。
カンナ・コピエーネはヒロイン。シルフ・ビーベルは悪役令嬢。
それがこの世の理のように、生まれながらにして定められた運命のように語りました。
それから数日後、悪役令嬢シルフ・ビーベルは断罪され、ダーゲンヘルムの森に捨てられ怪物に食べられてしまいました。ヒロイン、カンナ・コピエーネは王子と結ばれ、ずっと幸せに暮らしましたとさ。
「以上、『捨て悪役令嬢』の物語にございました。拙いところもあったとは思いますが、ご清聴ありがとうございました。」
これが、わたくしの全てにございました。片手間に話せてしまうような生涯。今更話す間でもなかったでしょう。しかし自ら話すことがけじめだと思ったのです。
話し終えても、陛下のいつもの拍手はございません。ただ腕を組み考え込むように瞼を閉じられています。
全てを話してしまえばどこから楽になるかと思っていましたが、そんなことはまるでございません。ただ胸には改めて愚かで薄っぺらな半生を再確認した虚しさだけがございました。しかしきっと虚しいと、薄っぺらなものだったと思うのも、ダーゲンヘルムに来てから充実した希望に満ちた生活を送ってきたからでしょう。
「わたくしは、どのような条件が提示されようと、ラクスボルンには行きません。」
ゆるりと開けられた陛下の目を逸らさぬように見つめながら言葉を継ぎます。
「ダーゲンヘルムが、わたくしの住むべき国です。シルフ・ビーベルは死にました。わたくしはダーゲンヘルム王国一国民のシルフとして、生きます。」
今更ラクスボルンで生きることはできません。今更シルフ・ビーベルとしては公爵令嬢としては生きていけません。かつての、ただただ流されるように生きてきたわたくしとは違うのです。
わたくしは自由に出歩くための足を持っています。わたくしは自由に手に取るための手を持っています。わたくしは自由に望み、発言するための声を持っています。
「……本当に良いのか?国にはお前が愛した者もいるだろう。」
「ええ、いたでしょう。しかし愛した家族からも、愛した友人からも裏切られて、もうあの国にわたくしが残してきたものはなにもございません。」
「シルフがラクスボルンに平和的に帰国しないとなると、武力闘争となる可能性がある。」
武力闘争、と聞き身を固くしました。要はラクスボルンとダーゲンヘルムの戦争になるということです。
なぜそこまでして一度捨てたわたくしを取り戻したいのかわたくしには見当もつきません。少なくとも、わたくしの所在一つで国の存亡にかかわるなど、本来ならばなかったはずのことです。
もし戦争になれば、ラクスボルン王国は必ず敗北するでしょう。それほどまでに、ダーゲンヘルム王国は規模が違います。
それはつまり、わたくしの望みはラクスボルンの滅亡を意味します。
「わたくし、は、」
「今のはシルフ、お前に帰国を望んで言ったわけではない。だが何も知らずメリットだけを教えるのは不平等だ。国が滅びようが何だろうが、お前の気にするところではない。ラクスボルンはそれだけのことをし、現在進行形でまた罪を重ねようとしているのだ。」
陛下は平等と嘯きながら不平等です。何を言っても、わたくしの望みはダーゲンヘルムに残ることだと知っているのですから。戦争となることをほのめかしたのは、わたくしが覚悟をもって選択することを促す為です。わたくしがわたくしの意思で、祖国ラクスボルンを捨て去ることを。
本当に意味のないものでした。戦争などという大事にわたくしの意思など関係ないのです。わたくしがどちらを選んだとしても、ファーベル陛下はわたくしを手放しはしないでしょう。そして陛下は自分のものに手を出そうとするラクスボルンを許しておくわけがございません。
このやり取りは結局、すべて儀式のようなものなのです。
「わたくしは、ダーゲンヘルムに残ります。……ラクスボルンがどうなろうと、わたくしの知ったことではございません。」
静かに駄々をこねるように、ぐいぐいと手押し車を押し付け望みを言え、わがままになれとおっしゃる陛下。たとえ実のない問答だとしても、わたくしは答えましょう。
「わたくしの居場所は、ダーゲンヘルムです。」
ここがわたくしの生きる国です。
「わたくしの愛するものは、ダーゲンヘルムにあります。」
わたくしの愛する陛下も、同僚も、王城の皆さんも、数多の物語も、愛するものすべてがございます。
「わたくしの幸福は、ダーゲンヘルムにあるのです。」
もうわたくしは、この優しい世界でしか息ができないのです。
「……そうか、そうかシルフ。いい子だ……。」
あっと思う間もなく、無造作に伸ばされた手はわたくしの頭を撫でました。髪が指に絡んではするりと抜けていくのを視界の端で見ていました。
カンナ嬢にとっての安堵が死ならば、陛下にとっての安堵は言葉なのでしょう。
「シルフ、良いことを教えてやろう。」
「何ですか?」
「お前の語った『捨て悪役令嬢』の物語、変わらず見事な語りだった。だが少し、間違っている。」
「……どこが、でしょうか。」
「悪役令嬢はダーゲンヘルムでずっと幸せに暮らし、ヒロインは”しばらくの間”幸せに暮らしたのだ。」
そう口の端で笑う陛下。なぜ、などとは聞きません。聞くことはできません。知らない方が良いこともあると知ったのもダーゲンヘルムでのことでした。
陛下は決して親切な方でも、お優しい方でもございません。
ただ一つ、わたくしが申し上げるとすればそれは「わたくしの知ったことではない」ということでしょう。
我がままに、欲張りになってしまったわたくしもまた、優しくはないのです。
今話もご閲覧ありがとうございました!
シルフは聖女から一般的な人間になりました。
さて次から復讐のターンです。