12冊目 喰われた娘への問い
陛下は普段より数時間早く来ておいででした。いつもなら図書館から帰ってきてゆっくりして、今晩読む本を探すのですが、今日はまだ何も考えておりません。バタバタとしながらもてなす為に湯を沸かし紅茶を用意します。
「落ち着かなくて申し訳ございません。」
「いや、構うな。今日早くお前に会いに来たのは私の都合だ。」
都合、というのは珍しいと内心首を傾げました。ここに陛下がいらっしゃるのは9割方陛下の都合です。なのになぜ今日に限って自分の都合だとおっしゃるのでしょうか。物語を聞くため、自身のペットの様子を見るため、モルモットの経過観察のため、それ以外の用事が何かあると言うのでしょうか。なにより陛下は陛下、この国で一番尊いお方です。彼の都合が最優先になるのは当然で、堂々と勝手に振る舞われるのが常の事です。わざわざこうして断りを入れること自体、不思議なことと言わざるをえないことでした。
紅茶をお出しいたしますと、すぐに一杯を飲み干されてしまいました。どこかで読んだミステリー小説に、人は言い出したくないことがあるときに飲み物を飲んでそれと共に言葉も一緒に飲み込んでしまうとありました。何か言いたくないことでもあるのかと思いましたが、そうお暇な方でもございません。言いたいこと、言うはずの言葉をそのまま飲み下すことはないでしょう。
「申し訳ないのですが、本日のお話はまだ決まっていなくて、」
「ああ、わかってる。お前も帰って来たばかりなのだから。それから、」
一瞬逡巡するように口を止められました。わたくしが空のカップに紅茶を注ぎますと、今度は躊躇いながらも一口だけ飲まれました。そんなにも躊躇し、言いたくないことをわたくしにおっしゃろうとしているのかと思うと、こっちまで緊張してきて、嫌な想像をかき消すようにわたくしもまた紅茶に口を付けました。
「……今日はお前は語らなくていい。」
「へ、よろしいのですか?」
「ああ、シルフ。今夜は俺がお前に話すことがある。」
こちらをしっかりと見据える陛下に反射的に居住まいを正しました。ピリピリとした緊張感に身体が硬くなります。
陛下は今から大事な話をなさろうとしています。それもわたくしに関わるような。彼は決してここで公務のことや他諸国のことについて、仕事のことについては口を開きません。この小さな塔の中で話されることはいつもわたくし、陛下、そして物語のことで完結しておりました。しかし今晩、この小さな世界に何か他の物が入ろうとしているのではないかと、予感しました。
「……この物語はまだ物語にすらなっていない。とある話を元にした噂話だ。」
「噂話、ですか。」
「ああ、ラクスボルンで流行っている、な。」
「っ!」
そこまでで、陛下がどんなお話を語ろうか察することができました。昼間、彼女から聞いた話です。
「その様子ならある程度知っているようだな。……ダーゲンヘルムに住む乙女を喰らう怪物の物語が現実になった、と。ラクスボルンの公爵令嬢が『ダーゲンヘルムの怪物』に喰われた。国民に被害が出た以上、王国は『ダーゲンヘルムの怪物』の退治に乗り出すこととなった。噂ではこの程度だな。」
「噂では、というと他にもお話があるのですか?」
「なぜ、今更こんな噂が出回り始めたのか。なぜ、捨てられていたはずのお前が、捨てられていたことを伏せられただ喰われたことになっているのか。俺は捨てられていたから拾っただけで、喰ったわけでも攫ったわけでもないと言うのに。」
それはわたくしも思っていた疑問でした。なぜ今更。わたくしが死ぬことを願っていたはずなのになぜこうも騒ぎ立てるのでしょうか。
陛下はまるでもったいぶるように紅茶に口を付けました。饒舌な口調はいつかの芝居がかった口上を思い出させます。
「理由は定かではない。だが言えることはある。」
「……何ですか?」
「ラクスボルン王国はお前を探している。本当に『ダーゲンヘルムの怪物』に喰われた、ないしは殺されたかを確かめるのではなく、今もシルフ、お前が生きているだろうと見越してお前を国へ連れ帰ろうとしているのだ。」
「っ!」
思わず息を飲みました。なぜと考える間もなく、今の生活を奪われ再びあの窮屈で退屈な籠の中に入れられ、ただただ呼吸をするだけの無味乾燥な生活を送る、そのことへの恐怖感に襲われました。
忌避でも嫌気でもなく、明確な恐怖でした。かつて何の疑問を希望も抱かなかったあの生活に、今のわたくしは恐怖感を覚えているのです。
もうわたくしはあの場所で、シルフとして生きることはできないのです。
「シルフ……シルフ、泣くな。」
「え……?」
「泣いてくれるな。お前に泣かれてしまうとどうしたら良いのかわからなくなる。」
知らず知らずのうちに涙を流していたようで、ぼやけた視界にすこしだけ戸惑ったような陛下のお顔が見えました。慌てて拭うも次から次へと涙が溢れてきてハンカチで目元を抑えることしかできませんでした。喉の奥と目の奥が熱く、鼻がつんと致しました。体温が上がっているのを自覚しながら、冷静な部分で「ああ、こんなにもラクスボルンに帰ることが嫌なのか」と感じました。
「お前を森から連れ帰ったとき、私の流した物語通り、血の一滴、髪の一本も残していない。だからこそラクスボルン王国はお前が死んでいない、殺されていないと思っているらしい。事実、お前は今も生きている。」
「っ今更、わたくしを生きて国へ連れ帰って、どうするのでしょうか……?」
「はっきりとしないが、おそらくお前を次期妃として置くのだろう。元がそうであった通りに。」
陛下の言葉にハッといたしました。
ここに、ダーゲンヘルム王国へ来てから陛下は一度足りともわたくし自身に身分や捨てられるまでに至った経緯について詮索することはございませんでした。ただ一度、シルフ・ビーベルと家名を名乗ったとき以外。
しかし知られているのも当然でしょう。陛下がお気に入りと側に置き毎晩訪れる娘の子細など調べてしかるべきです。わたくしが国外追放まがいのことをされた愚かな経緯を知られていると思うと、恥のあまりつい目が合わせられなくなります。あのころのわたくしの愚鈍であったこと、きっと陛下は呆れられるでしょう。
「どうするシルフ。」
「どう、とは……?」
「ラクスボルンの目的がお前であった場合、十中八九戦争染みたことは避けたがり、外交的手段をもって平和的にことを進めようとするだろう。そこでお前の身の安全を保障させても良い。そうすればお前は安全に母国で過ごすことができるだろう。」
「それは、」
「お前はラクスボルンに戻ることも選択できる。お前がここへ来たとき捨てたもの、その全てを再び手に持って。」
わたくしは、捨てられました。
シルフ・ビーベルは、親から、婚約者から、国から、捨てられました。
しかし今、その全てを取り戻す選択肢を目の前に提示されているのです。
言葉を失いました。
陛下がそうおっしゃるのであれば、そうなるのでしょう。嘘はつかれない、しないことできないことはおっしゃらない方です。ダーゲンヘルム王国は大国、それに比べれば隣のラクスボルン王国など弱く小さい。交渉を行うことになれば、まずわたくしを保護しているダーゲンヘルム側が優位に働くでしょう。わたくしの処遇について注文を付けることはたやすいこと。そしてそれを約束が反故されていないか調べるのも、きっとダーゲンヘルムにとっては簡単なことでしょう。
「聞こう、ラクスボルン王国公爵令嬢”シルフ・ビーベル嬢”。安全を保障された母国に帰るか、このままこのダーゲンヘルムにただの娘として残るか。君はどちらが望む?」
赤い二つの目がわたくしに誤魔化しは許さぬ、とでも言うように射抜きました。
もし、わたくしが陛下に会ってすぐのことであれば、きっと今の陛下はわたくしの回答に期待している、楽しませる答えをするのではないかという好奇心に駆られている、とそう称したでしょう。
しかし今のファーベル陛下はそのどちらでもありません。今のわたくしならばその瞳の色を理解できました。
期待でも、愉悦でも、好奇心でもありません。
ならば、わたくしの答えはただ一つでございました。